「日本映画、『罪の声』は見ごたえのある佳作である」

 
  1984年、昭和59年から昭和60年にかけて、日本中を震撼させた<グリコ・森永事件>が起きた。1984(昭和59年)3月に、江崎グリコ株式会社の社長・江崎勝久さんが入浴中に自宅から誘拐され、監禁されていた安威川沿いの水防倉庫から、3日後に自力で脱出した事件である。逃げる時に周囲には誰もいなかったという。
  俯瞰で撮られた水防倉庫の映像を私は今でもありありと思いだす。
  それから1年以上にわたり、江崎グリコ、丸大食品、森永製菓、ハウス食品工業、不二家、駿河屋などの食品会社に、青酸入りの毒物を混入するとの1連の脅迫事件が続いた。
  警察庁は広域重要指定事件と名付けて、大掛かりな捜査に取り組んだが、結局犯人グループの検挙は出来ず、時効になってしまった。
  何年か前、私は広告電通賞の贈賞式後のパーティーだったかで、人混みの中、突然前に江崎勝久さんが立っていらして、危うく声を出しそうになったことがあった。周りのどなたも気が付かない様子だった。小さい私から見ると、江崎さんは背の高い方に感じた。有名企業の社長さんだから、広告電通賞でお目にかかっても当然なのだが、事件から随分経っていたので、創業家の社長さんはポストに長くいらっしゃるのだなあと思った。
  私は仕事柄、よく業界人の会合に行っていたが(今年はコロナでゼロ)、人混みの中で事件ネタの映像でお見掛けする有名人に出くわすことが多い。
  オウム真理教事件に付随して起きた1995年3月30日の國松孝次警察庁長官狙撃事件についても、ある会合で、出会いがしらに國松さんとぶつかりそうになったことがある。私は小さく「あっ」と声を出したが、周囲の誰もが彼に気付かなかった。つまり、周囲にいる人たちがみんな若くなったのである。お顔の色が蒼白くて案外小柄な方だった。
  世の中の人たちが若返りするとともに、事件が風化してゆく。でも、仕事柄執念深く、記憶力だけはいい方の私は、未解決事件を忘れることはできないのだ。
  この<グリコ・森永事件>を題材に、フィクションとして書かれた塩田武士さんの小説、『罪の声』の映像化を見に行った。非常に良く出来た映画であった。小説も発売当時、週刊誌の人気投票でミステリーの1位を獲得している。
  シネマコンプレックスの小屋にはチラホラとしか客はいなかった。平日の午後なので当然だが、「大ヒット上映中」という宣伝文句の割には淋しい客の入りであった。作品が面白かったので私は大満足で小屋を出た。
  監督は土井裕泰さん、脚本はテレビ界でもモテモテの野木亜紀子さん、東宝株式会社の作品である。
  大日新聞文化部記者の阿久津英士(小栗旬)は、いつもはヒマダネ、マチダネの記事を書いていたが、未解決事件を追う社会部に出向くことになる。
  35年前に社会を震撼させた通称<ギン萬事件>、<ギンガ・萬堂事件>という未解決事件のその後を追う「深淵の住人」企画の記者の1員となったのである。
  <ギン萬事件>は初の劇場型犯罪としてマスコミを挑発し、犯人の名前(くら魔てんぐ)は一躍有名になった。阿久津は地道にかつての関係者を尋ねて回る。
  京都にある高級紳士服のテーラー、HIGH  CLASS  CUSTOM  TAILOR  SONEの主、曽根俊也(星野源)は父親・光雄が創業したテーラーで妻子と共に平穏な人生を送っていた。母親の真由美(梶芽衣子)はガンで入院している。
  ある時、父親の遺品の中に古いカセットテープと英文のメモ帳があり、再生してみると、かの有名な<ギン萬事件>で脅迫に使われた子供の声だった。その声は自分の子供時代の声だ。ここから、物静かで平凡だが幸せな人生を送っていた俊也の日常が動きだす。
  何が素晴らしいといって、星野源さん扮する曽根俊也の静謐な佇まい。テレビドラマ『MIU404』(TBS)での刑事演技も素晴らしかったが、星野くんは歌手としては決して上手いと思わないのに、役者としては1流だ。ほの暗い店で、黙々と仕事をしている腕の立つ高級紳士服の仕立て屋然としていて、余人をもって代えがたい雰囲気。
  記者の阿久津と曽根は必然的に出会い、曽根はテープも聞かせる。
  曽根の父親・光雄の兄は元過激派の闘士であった。光雄とその兄の達雄との父、つまり、曽根俊也の祖父は交番に届けた落とし物の中の金を、ネコババしたと誤解されたまま亡くなった。お巡りが取ったにもかかわらず。兄の達雄は復讐を誓い英国に渡った。
  脅迫テープには他に2人の子供がいて、俊也が6歳、2人は10代の女の子と8歳ぐらいの男の子の声だった。
  これ以上は書かないが、幸せにテーラーの人生を送ってきた曽根に比べて、テープの2人の娘と息子は犯人グループのヤクザな人間たちと過酷な辛い日常を辿る。
  私が1つ疑問に思ったのは、達雄、光雄らと柔道の同じ道場仲間で幼馴染の元マルボウらと犯人グループになったのだが、結構、巷の食堂や飲み屋でわいわいつるんでいたらしいと書かれているのに、周囲から疑われもしなかったのかということ。
  当時は日本国中が<壁に耳あり、天井に目あり>状態で、男が大勢で口角泡を飛ばして密談していたら、疑われたに違いないのである。ま、そこは目をつぶるが。
  阿久津が英国に渡り、最後は達雄と語り合う。達雄を演じるのが宇崎竜童さんで、元過激派の成れの果てとしては妙に垢ぬけていて可笑しかった。達雄は何で食べているのか?
  『グリコ・森永事件』で一番有名になった人がキツネ目の男である。1時、作家の宮崎学さんが怪しいという都市伝説も語られた。
  滋賀県で犯人の車を取り逃がしたりして、3県にまたがる事件のため、セクショナリズムが災いしたと言われた。当時、私は東京人から見ていて、関西の<グリコ・森永事件>には1種独特の違和感があり、距離感も感じていた。「しぬで」とか「たべたらあかん」とかいう関西弁が、怖いのだがおちょくっているようで、ピンとこなかった。
  映画『罪の声』には関西の話という違和感がなく、私も体験した遠い昔の過激派がいた時代への(変な言い方だが)ノスタルジーさえ感じたのである。
  昭和を引きずっている令和時代の佳作映画である。(2020.11.20)
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