「映画『ドライブ・マイ・カー』は非常に示唆に富む作品だが、疑問点も2つある」

 アカデミー賞の作品賞と監督賞と脚色賞と国際長編映画賞の4部門でノミネートされている、濱口竜介監督作品の『ドライブ・マイ・カー』を小屋で見てきた。
 朝の9時10分から12時半までの長尺で、てっきり間に休憩が入るのだろうと思っていたら、ぶっ続け。でも、あまり長すぎるとは感じなかった。
 ただ、朝早くてろくな朝食を取っていかなかったので、お腹が空いた(笑)。
 私は日本映画に偏見を持っていて、邦画はあまり見ないのだが、今回は超話題作なのでおっとり刀で、コロナ禍の中、びくびくしながら見に行ったのだが、すいていてよかった。
 座席1つ置いた隣のお兄ちゃんが、この寒空に半袖のTシャツで、事もあろうにマスクなし! 私はいつもネットで予約して座席を取るので、マスクなし男から逃げて移動することができなくて弱った。ネット予約もよし悪しだ。
 濱口監督は優秀な若手監督である。東京大学文学部の美学を卒業なさった後、東京藝術大学大学院で映像研究科を修了している。
 アカデミー賞の作品賞でも取ったら大騒ぎになるだろう。
 『ドライブ・マイ・カー』の解説ははしょる。
 村上春樹さんの短編小説が原作だとか、西島秀俊さんが全編出ずっぱりだとか、既に色々書かれているのでパス。
 出だしがユニークで、俳優にして演出家でもある家福悠介(西島秀俊)と妻の音(霧島れいか)とのエピソードが語られた後に、初めてキャストやスタッフが紹介されるのだ。
 妻は元女優だが、今は脚本家として活躍している。悠介は15年も乗っている愛車のSAAB
の運転中にも、妻が吹き込んだ脚本のテープを聴きながら、自分のセリフも言う。つまり、この夫婦は相思相愛の仲だということがわかる。
 しかし、20年近く前には2人の間に娘がいた。彼女は病死した。
 それ以後、音は子供を作りたがらないので、夫婦2人きりだ。苗字が家福で名前が「音」、音は結婚する時に宗教的過ぎると言ってこだわった、というセリフがチラと語られる。なるほど、「家福音」を分解したら「家、福音(ふくいん)」となるナ。
 悠介がロシアに仕事で出張するはずだったが、空港で、天候不順のためにフライトが欠航になり、彼は自宅に取って返す。
 家に入ると、妻の音は、まさに若い男と全裸で抱き合って行為の真っ最中で、悠介はばっちり目撃してしまう。気付かれないように悠介は家を出る。
 ここが私の第1の疑問点だ。
 こんなに妻想いで優しい夫ならば、フライトがキャンセルになったら、イの1番に音に空港からスマホで「1度帰るよ」と電話するはずである。いきなり帰ってきて不貞を目撃するなんて間が抜けている。今の若い夫婦(中年でも)は何でもスマホで、LINEまみれ。
 妻にはいちいち連絡しない硬派の昭和の男とは違うのである。
 今時の夫は、真っ直ぐに連絡もしないで自宅に戻ったりは絶対にしない。電話してあったら、音の不倫場面も目撃できないから、この出だしは成り立たないわけだ。
 その後、音は自宅で、悠介の不在の間に、くも膜下出血で急死した。
 もう1つの疑問点だが。
 終りの方で、寡黙なドライバーの渡利みさき(三浦透子)が、夜の商売の母親について語る場面。母親にはサチという8歳の別人格があり、時々出てきたといい、不幸な生い立ちのみさきにとって、唯一の友達だったと語る。
 私はここで「またか!」と思った。昔々、テレビドラマで多重人格の女の話がもてはやされた。確かヒットしたものの1つに、三田佳子さんが主演した作品があった。題名失念。
 1人の人間に別人格が登場する1つの理由に、児童虐待とか、耐えがたいストレスとかがある人間が、その辛さを別人格を作って背負わせる。
 だから、この作品の母親も荒んだ境遇の中で、サチに逃げたということである。
 多重人格を誰が使おうといいのだが、このみさきの境遇は余りにステレオタイプで、私はがっかりしたのである。ただ1点、みさきは「ウソまみれの人たちの中で育ったので、人のウソを見抜ける」という設定である。ここは面白かった。
 音がセックスしていた複数の男の1人、高槻耕史(岡田将生)は長身でハンサムなフリーの役者であるが、誰かに追われて写真を撮られている。悠介が広島で行う国際演劇祭での多言語芝居のオーディションにも応募してくる。
 私は演劇界のことはさっぱりわからないので、今回、初めて多言語のお芝居というものを知った。1人は日本語で喋り、別の人は手話で喋り、またまた別の人はほかの言語で喋り・・・。ホント、こんな舞台で観客が理解できるとは、想像もつかない。
 こういう前衛的な舞台に、私だったらわざわざお金を出して見に行ったりしない。
 なんかケチばかりつけているように見られるかもしれないが、そうではない。
 家福悠介はまともな常識を身に着けた立派な社会人である。娘を失い、2年前には愛する妻も失い、喪失感の海の中で辛い毎日を過ごしている。
 本来ならば、有名な俳優であり、演出家でもある悠介が、しがない極貧片親育ちのドライバーである渡利みさきなどに、己の喪失の救いを求めるのはあり得ないだろうが、彼はみさきの母親が土砂崩れで死んだ北海道の上十二滝に行こうと誘う。
 そこで彼は本音を吐露する。
 「音を失うのが怖かったので、彼女の不貞も見てみぬふりをして咎めなかった。今わかった。会いたい、怒鳴りつけたい、問い詰めたい、謝りたい、帰ってきてほしい、会いたい、会いたい、会いたい・・・」。生きている人は自分の人生が終わるまで、失った人のことを思い続けて苦しむのだともいう。
 私(筆者)も昨年他界した夫の、亡くなってからわかった別の顔と、部屋が広い喪失感に1年以上も苦しんでいる。みさきのような他人(願わくば男性)が現れてくれないものか。この歳では無理だろうか。(2022.2.21)
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