「いまは亡き世界的ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク賛歌

    わが国におけるクラシック演奏家のフアンクラブ第1号の50年」

  

 そのクラブの名前は『ニューフレンズ オブ ワイセンベルク』という。
 日本におけるクラシック・ピアニストのフアンクラブ第1号である。
 1969年にピアニストのアレクシス・ワイセンベルク(1929-2012)は初来日した。
 朝日新聞社の第3代社主であった深窓の令嬢、村山美知子さんが、アメリカで評判だったワイセンベルクさんを、ご自分が関わっていた大阪国際フェスティバル音楽祭に招聘したのが初めである。
 大阪万国博覧会が開かれた1970年にも彼は来日した。
 その1年後、慶応大学を休学して調律の勉強をしていた純朴な青年がいた。
 T氏という。彼は友人が貸してくれたバッハの演奏テープを聴いて感激し、その演奏を
しているピアニストのワイセンベルクさんが、東芝EMIからレコードを出していることを知って、会社に手紙を出したのである。勿論、レコードも買った。
 そこで大阪国際フェスティバル協会を紹介され、フアンクラブを作りたいと申し入れた。
 最初は「アドマイヤ―」つまり、ワイセンベルクさんを「称讃する会」にしたいと言うと、ご本人のワイセンベルクさんが『ニューフレンズ オブ ワイセンベルク』とつけてきた。
 これが日本におけるクラシック・ピアニストのフアンクラブ第1号の誕生だった。時に1972年、日本が中華人民共和国と国交正常化したエポックメイキングな年である。時の総理は田中角栄、アメリカはニクソン大統領であった。
 今放送中のNHK朝のテレビ小説『ちむどんどん』の時代である。
 大阪国際フェスティバルの呼びかけで、パンフレットにT氏が原稿を書き、呼びかけたところ、30人ぐらいのメンバーが集まったのである。
 『ニューフレンズ オブ ワイセンベルク』の設立は、1972年4月23日であった。
 今年で満50年、日本で最初のクラシック・ピアニストのフアンクラブは、今年の4月23日に50周年を迎えたのである。
 ワイセンベルクさんが「チェアマン」と呼んだ『ニューフレンズ オブ ワイセンベルク』の会長、T氏は今もご健在である。
 フアンクラブ第1号として、会は何をやったのか。
 まず、ワイセンベルクさんの来日の度に、皆で成田空港へお出迎えに行き、離日の時には見送りに行った。
 年に2回、会報のパンフレットを発行した。
 Tシャツを作り、カレンダーを作った。
 多い時で会員は130人ぐらいいた。会費は2,000円~5,000円を徴収した。
 東芝EMIから試聴版を借りてレコードコンサートもやった。
 ワイセンベルクさんの定宿はホテルオークラであったが、帝国ホテルに泊まられた時もあり、その時には金扇と呼ばれる部屋で、メンバーが大勢集まり懇談会をやった。
 1929年7月26日にブルガリアのソフィアで生まれたユダヤ系のワイセンベルクさんは、外交官だった父親と母親が離婚したために苦労したらしい。正確かどうかわからないが、ユダヤ系のために強制収容所にも入れられ、そこからトルコに脱出、最終的にパレスチナに辿り着いたという。その後アメリカに渡り、1947年、18歳の時に、リーヴェントリット国際コンクールで優勝して華々しく世に出た。
 ワイセンベルクさんは指揮者のカラヤンに愛され、ベートーヴェンの『皇帝』やラフマニノフの2番、チャイコフスキーの1番など、ベルリンフィルやパリ管などとピアノ協奏曲の録音を沢山出している。カラヤンがワイセンベルクのどこを好きだったのか諸説がある。
 ヤリ手のカラヤン・マネジャー、ミシェル・グロッツさんが人脈を使って、T氏に、世界中のワイセンベルク・ツアー・スケジュールのコピーを下さったらしい。彼らも、世界でイの1番に出来たワイセンベルク・フアンクラブを大事に思ってくれたのであろう。
 ところが、日本でのワイセンベルク評には毀誉褒貶があった。悪口も書かれた。
 『世界の名ピアニスト』という音楽之友社の名著を書いた小石忠男さんのように、自分でちゃんと聴いて評価する音楽評論家ばかりではなかったので、どこかの御大が貶した尻馬に乗って、ワイセンベルクさんのことを、技巧だけの冷たいピアニストなどとこき下ろすバカ評論家も多かったのだ。
 だから、某放送局はワイセンベルクさんのコンサートを絶対に放送しなかったり、新聞でも無視したりする紙もあった。カビの生えた前近代的日本の批評界のお蔭である。
 私はプロの批評家ではないが、自分の耳には自信を持っている。音楽雑誌に演奏会評も書いた経験がある。私は子育てに忙しかった頃、彼のレコードを聴いて、涙した。
 出自もキャリアも碌に知らない時だったのに、突然、彼のピアノに「20世紀の孤独」を感じたのだ。底知れぬ現代人の深い孤独を感じて胸が締め付けられた。
 恐らく、ユダヤ系の彼が辿ってきたヨーロッパでのデラシネのように辛かった境遇が、彼の音楽の根底から離れずにいて、私の耳には、あの美しい音と共に聴こえてきたのだと思う。
 誰が何といおうと、私は彼のピアノに惹かれて1970年代の終わり頃、このフアンクラブに入会したのだった。
 見かけは優しく上品な彼だが、会話の途中でも時々見せる寂しそうな冷たい影をもっていた。ホテルオークラの廊下で、あるツアーに付いてきていたお嬢様のマリアさんが、小柄なワイセンベルクさんとは似て非なる大女で驚いた。後に奥様とは離婚したが、子供さんがいることでホッとしたのを覚えている。
 晩年、彼はパーキンソン病を患っていたという。道理で、来日しても弾けない時があった。
 2012年1月8日、アレクシス・ワイセンベルクさんはスイスで永眠した。
 2012年3月4日、NHK FM放送の『名演奏ライブラリー』で「ワイセンベルクを偲んで」というタイトルの追悼演奏が放送された。解説者は絶賛していた。
 2022年4月23日、『ニューフレンズ オブ ワイセンベルク』は50周年を迎えた。(2022.4.30.)
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