今から約30年前、わがマンションの前を通るバス通りを隔てて、斜め前に建つ小ぶりのマンションの端の部屋に、美しく高名なヴァイオリニストが住んでいた。 母の代から音楽好きだった筆者にとって、そのヴァイオリニストは殿上人であり、ご近所にあんな有名人が住んでいると驚くだけで、いつかお見掛けしたいと思っていた。 ある日のこと、JR某駅に向かうバスに乗り込んで腰かけ、ひょっと隣を見ると、なんと、かのヴァイオリニストが座っていたのである。 頭の中が逆上した筆者は、家族の1人が音楽をやっていたこともあり、馴れ馴れしく話しかけてしまった。彼女のように多くのフアンに囲まれている方から見れば、さぞ無礼なオバサンと思われたのに違いない。 それが大谷康子さんとの初出会いであった。 ご主人はお医者様(ひょっとして、受験偏差値最高の東大理Ⅲ?)であるが、優しくて優しくて、いつも康子さんを掌に乗せて守っているようなお人柄である。 優し過ぎて、麻雀は「すぐ降りちゃう」からあまり強くない。ごめん。(笑) 筆者は筋金入りの雀士である。(笑、自称) 大秀才のご主人と、才色兼備の奥様との間にお子様がいらっしゃったら、どんな天才が生まれたかと思うと残念だ。2世はいらっしゃらない。 世の中とはそういうものである。 ある年のお正月には、白金台にあるシェラトン都ホテル東京で同じ宿泊客としてお目にかかった。 だが、彼女はお正月どころじゃなかった。次々に試験前のお弟子さんたちのレッスンをしてあげなければならないので、大忙し。 大演奏家であると同時に、大指導者でもある彼女の姿に感心するやら尊敬するやらであった。 さて、ここからが今回の本番。 大谷康子さんの、もうデビュー50周年音楽会である。 かつての記念コンサートも聴かせていただいたが、今回は単に「大谷康子賛歌」ではない。 ひと晩にヘヴィな協奏曲を複数演奏した、かつての記念コンサートとは全く違う。 その、とろけるように甘い美貌からは想像もつかない、硬派な主張に基づいた「物言うコンサート」である。 まず、初めの曲は技巧派の『ツィガーヌ』(M・ラヴェル)を大谷さんのソロ演奏で。 プログラムには大谷さんの藝大同級生である藤井一興さんがピアノ伴奏とあったが、急遽変更になっていて、佐藤卓史さんが弾く。しかも、『ツィガーヌ』を暗譜伴奏だって! 筆者は昔昔、旧毎コンとか有名なコンクールは大体予選から聴いていたので、大抵の若いピアニスト情報に詳しかったのだが、ある時点からプッツンして行かなくなった。それで、この青年の猛者ぶりも知らなかったのだが、暗譜伴奏には驚いた。 第2曲は『~ファシズムと戦争の犠牲者に捧げる~ 弦楽四重奏曲第8番ハ短調op.110』 (D.ショスタコーヴィチ) 大谷さんとお仲間の弦楽器奏者からなるクワトロ・ピアチェーリのメンバーで、迫力ある反戦歌だ。演奏の前に、大谷さんがマイクをもって主張なさったのは、現在只今、ウクライナとロシア、イスラム組織ハマスとイスラエル、の戦争が続いている。 戦争が無い地球の明日を求める、と。 ショスタコーヴィチが映画音楽のために、ドレスデンを訪れた時に、戦争の惨禍を目撃してわずか3日間で書き上げたという作品である。 筆者は大昔(昭和20年代)、まだテレビもなかった頃、NHKが放送したラジオドラマで、三好十郎の『美しい人』の大フアンだった。主演俳優にファンレターを出したところ、彼が写真を送ってくれた。この作品の劇伴に使われていたのが、ショスタコーヴィチの交響曲第5番である。ショスタコ? ノーノ―、というアレルギーは筆者にはないのだ。 政治的に毀誉褒貶のあったショスタコだったが、この弦楽四重の第8番も素晴らしい。 第3番目の曲は『メタモルフォーゼン(変容)~23の独奏楽器のための習作~』(R・シュトラウス) 若手指揮者のめっちゃ有名人である山田和樹さんが指揮する、今回の大谷さん50周年のために組織された記念祝祭管弦楽団の演奏である。黒いロングドレスやタキシードで現れた23人のソリストクラスの弦楽器奏者たちが、ゆるーい半円形になって奏でる。 音も素敵だが、23人の弦楽器奏者たちの造形が美しく、1人衣装も違う大谷さんが、黒い集団を従えて屹立している。彼女は鼻高々だろうと楽しかった。 休憩後の2曲の内、第4番はパスする。紙幅が足りなくなるので。 第5番の曲は世界初演の『ヴァイオリン協奏曲、未来への讃歌~ヴァイオリンと世界民族楽器のための~』(萩森英明) 前半では白黒のシックなドレス姿だった大谷さんが、後半は燃えるように真っ赤なロングドレスで現れて、山田和樹さん率いるフル編成のオーケストラと協演した。 そればかりか、オケの前に現れたのは民俗楽器のソリスト4人である。 舞台袖の左から、何やら秋のススキみたいな植物をくっつけた『ンゴマ』(何じゃ?それ)演奏者・大西まさやさん登場。他に、バンドネオン奏者の三浦一馬さん、『バス・クラリネット』の梅津和時さん、『ドゥタール』(ウズベキスタン、タジキスタンの伝統音楽)演奏家の駒崎万集さん。筆者はタンゴマニアなのでバンドネオンにわくわくする。 つまり、世界中の音楽家が美しい音を奏でれば、民族や言語や思想の違いを超えられるとする、大谷康子の長い間の信条を、最後のオーケストラと各楽器との協奏で主張したのである。甘いマスクからは想像もつかない、硬派の演奏家、大谷康子さん、あっぱれ! 60周年が待たれるが、筆者はもうこの世にはいまい。(2025.1.10.)。 (無断転載禁止)