「大作曲家、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの妻は、本当に稀代の悪妻だったのか。キリン・セレブレンニコフ監督の映画、『チャイコフスキーの妻』を観る」

 筆者は臍曲がりで、人様の感想にはあまり関心がないから、試写会を見たプロの批評家の文章には事前に目を通さないことが多い。
  ところが今回は違った。
 たまたま、揃ってわが家に送られてきた週刊誌2誌に、同時に『チャイコフスキーの妻』の批評が掲載されていたので、イヤでも目に入ってしまったのだ。
 1つは白井佳夫先生の映画評(9.12.週刊新潮)、評価点77。
 1つは5人による短評(9.12.週刊文春)、☆3つの方が4人、☆4つの方が1人。
 クラシック音楽フアンの筆者としては、先の『ボレロ』もそうだが、作曲家とか大演奏家とかの映像作品は必ず見にゆく。
 だから、この9月というのにクソ暑い日中に、某小屋に観に行ったのである。
 感想はどうであったか。
 某小屋のシートが深い上に背もたれが高すぎて、困った。
  座高の低い筆者は座席に埋没してしまい、その上、前の人が背の高い人らしく、ぴょこんと首が背もたれから出てる。女の人なのにノッポだ。
 インターネットで予約指定してしまったので、ガラガラなのに席の移動は気後れする。
 こういう時に筆者はどうしても融通が利かない。
 移動すれば済むのに、ネット予約の席から動かずに、自分のバッグをお尻に敷いて、少々座高を高くして見たのである。
 それが2時間以上!
 疲れたぁ。(笑)。
 『チャイコフスキーの妻』(ロシア・フランス・スイス合作)は、史実でも悪妻だったと伝えられているチャイコフスキーの妻について、妻側から描いている作品である。
 はしょって言えば、地方貴族出身のアントニーナ(アリョーナ・ミハイロワ)は、高名な作曲家のチャイコフスキー(オーディン・ランド・ビロン)を一方的に好きになり、ラブレターの書き方を参考にして熱烈な恋文をペン書きして送りつける。
 驚いたのは、ラブレターが来ただけの彼女の家に、チャイコフスキーがいきなり訪ねてくることである。彼は素っ気なくあしらうが、アントニーナは諦めず、尚も恋慕い、愛してくれと結婚を迫る。
 根負けした彼は「穏やかな愛ならば」と、ついに彼女の求愛を受け入れて、モスクワで結婚式を挙げるのだが・・・。ここからが本番!
 結婚したにもかかわらず、夫であるチャイコフスキーはアントニーナを抱きもせず、夫婦の営みも拒否する。
 独身主義者のチャイコフスキーは苦虫を噛み潰したような表情で、アントニーナに「赤い服を着るな」とドレスまで高圧的に命令する。それでも彼女は彼を愛し続けるのだ。
 筆者は女贔屓ではなく、むしろ女性に辛い方であるが、アントニーナは美しくちゃんと躾けられた女性で、決して醜悪な押しかけ女房ではないので、見ていて腹が立った。
 筆者ならば夫の横っ面をひっぱたいて、「じゃあ、何故私と結婚したんだ」と言うけど。
 19世紀のロシアは女性の地位が低く、ほぼ女は男の所有物だったから反論できないのか。
 要するにチャイコフスキーは音楽院の教授の対面のためか、同性愛者で若い男が好きなくせにアントニーナと結婚したのである。愛の力で自分に向けさせると考えたアントニーナも、はっきり言ってアホ。
  チャイコフスキーは両刀使いではなかったから。
 街の描写で面白かったのは、浮浪者たちが屯する教会が何度か出てきたのだが、薄汚れた彼らが、お辞儀をすることである。
 西欧の人々はほとんど「シェイク ハンド」であって、お辞儀はあまりしない。ところが、この映画の中では、結構、人々がお辞儀をしていた。教会の前だけなのか。
 アントニーナに辟易したチャイコフスキーは、仕事を装ってサンクトペテルブルグに逃げて行ってしまう。2度と帰ってこなかったのである。
 その後は、弟のアナトリーと作曲家のニコライ・ルビンシテインが使いで来て、チャイコフスキーが心を病んでいると、彼女に離婚を迫る。
 彼女は拒否するが、修復不可能な現実を理解も出来ない。「私はチャイコフスキーの妻よ」と怒鳴ってサインしない。
 実はアントニーナには弁護士の内縁の夫が出来ていて、次々に3度も妊娠する。この幼児たちは孤児院に預けられて、いずれも幼くして死ぬ。哀れな話である。
 いかにも世俗まみれという感じの弁護士とのセックスシーンも出てきた。
 作り手は、高名な作曲家との崇高な愛のためにもがき苦しむ女が、首から下は簡単に妊娠するという戯画を描きたかったのか。
 また、最後の方で、立派なオチンチンをぶら下げた複数の全裸の男たちと、アントニーナが躍るシーンがある。まるでAV動画みたいである。映倫が黙ってるの ?
 全く厭らしくもないけれど、筆者には意味不明だった。この場面はいらない。
 つまり、男しか愛せない同性愛者と結婚した女性の、男女の結合を拒否された悲哀は、常に全裸の男を求めて彷徨っている、とでも言いたかったのか。
 もう1つ、筆者の不満。
 チャイコフスキーといえば、パトロンのフォン・メック夫人でしょ。
 彼女のカケラも出てこなかった。
 勿論、妻側を描いたのだからこれでもいいが、筆者が疑問に思うのは、如何にパトロンとは会わなかった史実があっても、教育者として確たる地位にいたチャイコフスキーが、メック夫人には手紙を残している。
 「女はみんな嫌い」体質でもなかったのではないのか。(2024.9.10)。
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