「10歳で発病し、96歳の今も隔離施設で暮らす『らい予防法』の犠牲者だが、昂然と生きる回復者・宮崎かづゑさんの不思議に明るいドキュメンタリー」

 すっかりディテールは忘れたが、民間放送連盟賞というテレビ番組のコンクールで、瀬戸内海のハンセン病隔離施設『長島愛生園』に生きた男性のドキュメントを見たことがある。
 とても頭のいい男性で、確か、施設の中での指導的立場にいらしたと思う。
 その男性のお名前も、番組名も忘れてしまって申し訳ない。
 ドキュメントを視聴して以来、筆者はハンセン病に関心が高くなった。
 それまではご多分に漏れず、「らい病は怖い」という概念しかなかった。
 「鼻も指も欠けていくんだよ」と聞かされた記憶があった。
 遠い昔のことのように感じていたハンセン病が、自分の生きてきた昭和30年代でも、まだ患者が隔離されていたと知って驚いたのであった。
 患者が隔離された後で、官憲(?)の1団がやってきて、家中に真っ白な消毒の粉を撒き、隠すどころかあっという間に地域中に知れ渡ったという過酷な話が語られていた。
 ハンセン病のことをわれわれ庶民は巷で、『らい病、らい病』と呼んでいた。
 旧約聖書の中にもハンセン病の患者のことは出てくる。
 だから、有史以前からあった皮膚病の1つだったのだ。
  日本では。
 明治末期から『癩予防法』が作られ、1931年(昭和6年)、1953年(昭和28年)、『らい予防法』と変遷を繰り返しながら、結局、『らい予防法』が廃止されて患者の隔離政策が終わったのは、1996年(平成8年)というこんなに近い年なのである。
  あのロングヘアの小泉純ちゃん(失礼!)・小泉純一郎さんが担当大臣の時で、これは筆者もニュースで見た記憶がある。
  成立の時に、彼が患者代表の方々と握手をしていらした。
  1996年と言えば、あのオウム真理教上九一色村から、麻原彰晃以下が逮捕された1995年の翌年である。ついこの間という感覚だ。筆者にとっては。
  今回の主人公、宮崎かづゑさんは岡山県の農村に生まれた。
  彼女の人生に2016年から8年間も寄り添って、女性映画監督が撮り続けたドキュメント映画を取り上げたい。
  今年72歳になる映画監督・熊谷博子さんの作品である。
 『かづゑ的』という個性的なタイトルのドキュメンタリー映画だ。
  ずいぶん変わったタイトルだが、報道によれば、「かづゑさんでいること」という意味で、彼女にしかできない個性的な生き方の意である。
  かづゑさんはわずか10歳の時に父母と離されて、郷里の農村から、瀬戸内海の小島の療養施設・長島愛生園に強制的に隔離されたのである。
  わずか10歳の女の子にとって、随分辛い仕打ちであったと思うが、その時のことを彼女はあまり言わない。むしろ、2度3度お母さんが会いに来てくれたことを語る。よほど嬉しかったのであろう。
  宮崎(旧姓上田)かづゑさんには、両手の指が全部ない。
  右脚は膝から下が、ない。義足をつけて歩く。
  この頃、目も見えにくくなった。瞼が垂れてきて見えにくい。だが、顔に皺がよりにくい(浮腫んでいる?)。さすが女性監督の視線である。
  唇が閉じづらいのか、下唇をダランと開けたままで喋る。風貌には驚くが、語られる内容は明快で気の強い人だ。「ハンセンと言わずに自分はらい病という」とはっきりしている。
  子供の頃、療養所の中でも、脚が悪いので苛められた。子供が入る施設は『少年舎』と呼ばれた。この名前には胸を突かれる。いかにも軍隊的「強制」臭があるからだ。
  2016年の撮影開始時に、かづゑさんは、介助スタッフに助けられながら入浴する姿を撮影してほしいと言ってきたという。
 「全てを撮らなければ、私の身体はわからないでしょう」との意思だった。
  分かる気がする。
  湯殿で2人の女性に介助されながら体を洗う。と言っても、指がないので物が持ちにくいから、シャンプーまみれの髪の毛をこすると、上からスタッフがジャージャーとお湯をかけるのだ。堂々としているし、恐らく彼女は裸の自分に快感をもっている。女である。
  80年以上隔離施設からほとんど出られなかった彼女の閉塞生活は、どんなに過酷だったか想像もつかないが、ちゃんと教育を受けた知的な女性である。
  物事の判断が彼女自身のもので、誰に教えられたものでもない。
  辛口の筆者も裸足で逃げたい(笑)屹立した主張がある。
  彼女は、
22歳、施設の中で2歳年上の宮崎孝行さんと結婚した。彼は当然パイプカットされた。らい患者は子孫を残すことが許されなかったからだ。酷い人権蹂躙である。
  78歳、初めてパソコンを習得し、不自由な手でも器具を作り文章を書きだした。
  84歳、『長い道』という半生を綴った本をみすず書房から出版した。
 『らい予防法』が廃止されてからは、外のコンサートにも行く。
  岡山のシンフォニーホールでベートーウェンの『第九』を夫と2人て聴いたら、ソリストの歌手がかづゑさんの書物のフアンだというのでサインしてあげた。
  この場面はいささかお膳立て臭いが、まあいい。
  ペンが持てないので、紐で手の甲に括り付けてやっと書く。こういう場面も、いかにも女性監督らしい心情を察した場面である。
  2020年に夫の孝行さんが亡くなって、今は1人暮らしである。寂しそうだが。
 「今でもお元気です」と熊谷監督の弁。「ハンセン病患者は国に養ってもらっている」声だの、「人権蹂躙と叫ぶ市民運動は撮らず、ひたすらかづゑさんと向き合った」熊谷さんの撮り方は大成功だったと言える。(2024.3.10)。
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