「75年目の終戦記念日、私の疎開体験を伝えておかねばならない」

 戦前から人間をやっているのに、これまで私は自分の疎開時代の体験を子供にも話さないで来た。思い出すのも嫌だったからである。
 疎開先で何が嫌だったと言って、あちこちの大都会から疎開してきた遠い親戚の人間たちと、襖一枚隔てた同居生活で、個人のプライバシーが全くなかったことである。
 1度どこかに書いたが、未だに見る変な夢は、この頃のストレスが原因である。
 眠っていると近くで誰かの声がする。自分は今自宅でくつろいでいるはずなのに、突然傍で聞きなれない他人の声がする。すぐ横の障子の外の廊下だったり、窓の下だったり、大きな声で、自分と関係のない内容の下品な声が聞こえるのだ。大勢の時もある。
 ギョッとして身の周りを見回しても、家族は誰もいなくて、私は独りぼっちである。誰かにいつも聞き耳をたてられていたり、覗き見されていたりして、そこから逃げようと思うと、見知らぬ田舎の畑や野原の中で、私は家に帰れない。いつまでも聞き耳をたてられている場所から逃げられないのだ。孤独で怖い。
 疎開先では本当にプライバシーがなかった。両親やすぐ上の兄と一緒だったはずなのに、夢では常に1人で逃げていたように、精神的には子供心に独りきりで闘っていた。
 田舎町からさらに山奥の農家に疎開した時には、駅から1里も歩く遠い親戚の家に辿り着く前に、追いはぎに襲われそうになった。駅から懐中電灯1つで2家族が歩き出した時、多分近くの家から見張っていた強盗が、襲う目的で出てきた。
 ところが、10人近い2家族の人数だったので、追いはぎがやれなかったのである。夜目にも恐ろしい大男で、日本手拭いで頭と顔半分を覆い、手には棍棒をもっていた。
 田舎の親戚では、戦争中の食糧難時代というのに、茶碗に円錐形の白米を山のように盛り上げて、「食え、食え」と強要されるのが死ぬほど嫌だった。野坂昭如さんが飢えた記憶をよく小説にお書きになっていたが、食の細い私は、「食べろ」と言われるのが苦痛で、戦争中に飢えた記憶なんかまるでなかったのだ。
 父親は中年、兄たちはまだ子供で、わが家は誰1人戦争で亡くなった者はいなかったけれど、家族はバラバラだった。
 夫の家族は父親の転勤で高松市に住んでいた。高松市は60%が焼け野原になる酷い空襲に遭ったそうだ。空襲で借家に住んでいた夫の家は助かり、大家の家が丸焼けになったので、隣り町に引っ越したという。地方都市の空襲も酷かったのである。
 空襲では、私の母が乳児を抱えた伯父の杉並区方南町の家に手伝いに行き、そこで丸焼けになって、危うく私は母を失うところだった。昔は長女(私の母)は一家の犠牲になって弟妹の家族のために働くのが当然と考えられていた。お陰で、末っ子の私はいつも母親の留守という憂き目にあったので、未だに孤独な夢を見るのだろうと思っている。
 田舎の悪ガキによくいじめられた。母が赤坂育ちだったので、わが家にはどこの地方訛りもなかったから、疎開先ではイントネーションが違うといってからかわれた。田舎の疎開先には水道もなかったので、共同の井戸水をバケツで汲んできて、大きなカメにため、その水で母は炊事をしていた。よくもまあ、食中毒にならなかったものである。
 飢えた記憶はなかったが、栄養が悪かったので、私はよく原因不明の重病になった。〇〇熱とか疥癬とか、シラミの湧いた髪の毛にDDTを吹きかけられたのは戦後すぐである。食も細く栄養も悪かった私が、この年まで生き永らえたのは驚きである。母は苦労したと思う。
 終戦の詔勅をわが家は知らなかった。広島の原爆投下については、出入りの男衆からチラッと聞いたが、ラジオはあったのに聞いた記憶がない。
 夫の父親は先生だったが夏休みで自宅にいて、家族全員で玉音放送を聞いたらしい。子供たちに「日本が戦争に負けた」と教えたそうだ。大半の日本人の体験であろう。
 戦後何十年も、私は映像で見る広島や長崎のキノコ雲を正視できなかった。広島にも長崎にも関係のなかったわが家であるが、あの映像は苦痛だった。後に映像のコンクールで審査員をいろいろやり、ドキュメンタリーで見ざるを得なくなってからでも、キノコ雲アレルギーは消えなかった。ビキニ環礁での水爆実験映像も未だに正視できない。
 要するに、その時代を生きた人間の肌感覚とでも言おうか、直接関係がなくても、大戦中の庶民のあれやこれや、非日常の苦しい体験が、塊りになってあの映像を拒否する。戦後生まれの日本人には、もどかしいぐらい絶対に理解されない刷り込まれた恐怖である。
 彼らに伝えられないのは、自分が拒否するせいでもある。どうしようもない。
 さて、その大戦の終わった日、戦後75年目のコロナ禍の夏、2020年8月15日に放送されたNHKのドラマ、『太陽の子』について触れておきたい。
 大戦末期に京都帝国大学物理学研究室の学生であった主人公の石村修(柳楽優弥)が、軍部の命令で核分裂の研究に従事し、硝酸ウランからウランを遠心分離機にかけて取り出そうとする。硝酸ウランは陶器屋のオヤジ(イッセー尾形)が黄色を出すために使っていた粉である。箱型のリュックを背負っておずおずと訪問する姿に、秘密の匂いがする。
 修の家には軍人未亡人の母(田中裕子)と、空襲時の類焼よけのために家が取り壊され居候になった幼馴染の世津(有村架純)と祖父、病で一時帰宅した下士官の弟・裕之(三浦春馬)らがいた。裕之は死の恐怖で入水しそうになるが、やがて、決然と家族に敬礼して死地に赴く。去ってゆく三浦春馬が、この撮影の翌年、自ら命を絶ったとは、果たして特攻隊死の亡霊に付きまとわれていたのではないかと勘繰りそうになる。
 原子爆弾が完成しない前に、広島に新型爆弾投下のニュースが流れる。教授と共に修は焼け野原になった広島の地を踏む。科学者の卵である修は、京都にも原爆が落とされるかもしれないという情報に、母と世津を疎開させた後、自分は比叡山に登って京都の原爆を観察するという。アメリカに先を越された物理学者は、原爆忌避どころか、観察する狂気だ。
 わずか50歳そこそこ、戦無派・黒崎博(作・演出)の鋭い感性に驚く。実際の学生の日記から、ここまで当時のエリートたちの矛盾、「戦争に加担するジレンマ」を物語化したストーリーテラーぶりに拍手を送りたい。
 今日は終戦、もとい、敗戦記念日。限りなく暑いコロナ禍の日に。(2020.8.15)
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