「6,000人ものユダヤ人の命を救った外交官、杉原千畝展を見に行ってきた」 

   日本橋高島屋8階で開かれている『杉原千畝展』に行ってきた。
  コロナ禍の真っ昼間、お客はまばらで淋しかったが、いかにも一家言ありそうな評論家風や大学教授風紳士たちが熱心に見ていて、それなりの通が来ているように思えた。
  私も杉原千畝には大いに関心があった。
  2005年に読売テレビで制作され日本テレビ系列で放送された『終戦60年ドラマスペシャル 日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』を視聴する前から、なぜか私は杉原千畝さんに関心があって(というよりユダヤ人問題に関心があって)、よく資料を読んでいた。
  私の記憶では、彼は脚光を浴びる前まで冷や飯を食っていた。本庁の指令に反して、勝手にビザを発給した公務員にあるまじき人物として冷遇されていたと聞いていたので、突然の逆転ホームランで「世に出た」人物的イメージを持っていた。
  杉原千畝さんは昭和61年(1986年)まで生きていらしたのだから、私も同時代人間であり、彼がある時突然有名になるまで、全く知らなかった。
  千畝さんの功績について知らない人のためにかいつまんで書くと、彼は第2次世界大戦が勃発した後、昭和14年(1939年)にリトアニアの首都・カウナス領事館領事代理に任命されて赴任した。
 そこで、後に『命のビザ』と呼ばれる彼の手描きのビザ(査証)を書き続け、日本を経由して自由の国に逃れようと押しかけて来た多くのユダヤ人たちの命を救ったのである。
  この展覧会での白眉は、彼が手描きしたビザの数々である。保存のために光量を絞ってあるので読みにくかったが、ホントに日本語で手描きしてある。これを6,000通も書いたのでは大変だっただろう。
  玄関の前に群がるユダヤ人たちの中から、5人を代表に選ばせ、彼らと交渉してビザを書き始めたのが1940年7月29日、それから8月26日まで、昼食抜きで書き続けた。退去命令が出て、ベルリンに移動する列車の中でも追いすがる人々のために書いたという。
  展覧会の中の重要項目の1つ、当時のビザが展示されている。
  ブルマン家のビザ。ドイツ語(?)と日本語とベタベタとハンコが押され、本人の写真にもかぶっている。
  レオ・メライド氏のビザには子供の写真も貼ってある。
  ビクター・ギリンスキー氏のビザ。この方は後に確か千畝さんのために奔走した方である。
  
 展覧会の初めの方で、私が興味をそそられたのは、平安丸という船の中の写真である。
  大きな外洋船なのだから、総てが洋風だと思っていたら大違い。千畝と幸子夫人とあと同行者(?)が食事をしている場面なのだが、その部屋は畳敷きである。外洋船の部屋が畳敷きだって!
  あちこちに置かれた食事テーブルは、日本家屋に昔よくあった丸テーブルで、そこに並んでいるお料理は、写真から推察するにグラタンなどの洋食である。つまり、畳敷きの部屋の座って食べる丸テーブルに、置かれた料理は西洋料理という和洋折衷のチャンポン。
  男たちは洋服だが、女たちはみんな着物姿である。 
  揺れる外洋船の中で、和服のお着かえはさぞ難儀だったろうと同情する。私は結婚式には着たが、和服は大っ嫌いで、今でも1枚も持っていない。
  亡母は時代からいっても和服ばかり着ていて、和服の衣装持ちだった。戦時中、疎開先で彼女は錦紗の着物を50枚も農家に売って、それで家族を支えたのである。私はこの写真を見て、嫌な過去を思い出した。
  写真が多いのは千畝さんのご兄弟や、領事館でのご家族。ひっそりとした領事館内で、職員や召使いもいただろうから、ユダヤ人が押し掛けてくるまでは、散歩と称して外へ出て、諜報活動をするぐらいしかやることがなかったのだろう。
  幸子夫人は11、13、15年と次々に子供を産んでいる。夫婦仲がよかったのだ。
  ひっそりした住宅街と、外国のド真ん中ともなれば、本国との連絡など夫の公的な仕事もさほど忙しくはなかったと見える。ビザ発給までは。
  
  さて、会場で売っていた『杉原千畝 命のビザ 決断の記録』という小誌と、田之倉稔さんという方がお書きになった『ファシズムと文化』という本を買ってきた。後者には私も当時見た記憶がある、名作映画、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』や『戦火の彼方』など、反ファシスト映画の監督や、俳優のヴィットリオ・デ・シーカなど懐かしい名前が沢山出てきた。
  ナチスドイツ時代を描いた映画では、私はロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』が1番好きである。ファシズムの残酷な物語は読むに堪ええず、私自身も田舎への疎開生活で辛酸をなめたので、もうあの時代のことは思い出したくもない。
  『戦場のピアニスト』では、エイドリアン・ブロディがアカデミー主演男優賞をゲットしたし、エロ話でアメリカに帰れなかった監督のポランスキーは、不在のまま監督賞を取った。
  『戦場のピアニスト』の中では、ゲシュタポがユダヤ人狩りに来て、車椅子の家族を3階の窓から地面に放り投げる残酷なシーンが忘れられない。
  また、最後のドイツ人将校の前でピアノを弾く主人公が、美しいショパンを弾いたけれども、戦火の中、瓦礫の中に何年も放り置かれたピアノが、調律を何年もしないで、果たしてあんなに美しい音を出せたかと当時笑い話的に話題になったのを思い出す。
  とにかく、杉原千畝さんという一介の外交官が、人道的行為で、世界的に日本人の名を高めた事実は厳然としてある。ちょっと客も少なく、華やかさとは無縁の展覧会ではあったけれど、恐ろしいコロナに怯えつつ、足を運んでよかった。
  戦後、イスラエルの人たちが千畝さんを探して顕彰してくれなければ、彼の英雄的行為は永遠に埋もれていたのである。(2021.8.19.)
                                         (無断転載禁止)