1972年、ミュンヘンオリンピックは行われるはずであったが、9月5日の早朝、『黒い9月(ブラック・セプテンバー)』と名乗るパレスチナ系武装組織が選手村に侵入し、イスラエル選手団を襲撃した。 2人を殺害し、9人を人質にして政治犯の釈放を要求したが、イスラエル政府は拒否したので、交渉は決裂した。 武装組織は移動した空港で地元警察と銃撃戦になり、人質全員と警察官1人と、テロリスト8人のうちの5人が死亡した。 この大事件を当時、オリンピック競技を中継するためにミュンヘンに滞在していた、アメリカABCテレビのスポーツ担当記者の側から描いている。 つまり、記者たちの場面はドキュメンタリー映像風だが、その時起きた実際の報道側の動きをそっくり再現したものである。しかし、記者たちの前にあるブラウン管に映し出されている画像は、実際の中継映像も使っているという具合だ。 本当は明るく楽しいオリンピック競技を中継するはずだったスポーツ担当記者たちが、突然、国際的、全世界で9億人も見ている大事件の報道を担うことになってしまったのだ。 監督はティム・フェールバウム、脚本はモーリッツ・ピンター、ティム・フェールバウム、アレックス・デヴィッド。 ドイツとアメリカの合作映画である。 ドキュメント風と聞いていたので、テロ事件の一部始終が描かれているのかと思っていたら大間違いだった。 たまたま起きたテロ事件を生中継することになってしまったテレビクルーの、慌ただしい動きを描くわけで、まことに人物の捌き方が大変だ。 例えば、その時、別の場面では競技場でバレーボール競技が進行中である。 事件の発端は、誰もテロなど予想していないので、「銃弾の音がした」とか何とか言っている。こういう始まりの描き方が面白かった。 オリンピックに関して、ドイツは1936年のベルリンオリンピックが世界大戦のために中止になり、ミュンヘンではテロリストのために中止になり、折角の平和の祭典が悲しい記憶に付きまとわれている。 当作がドイツとアメリカの合作映画であることから、彼の国の人々の心根の中に、われわれ日本人とは違った感情があるのではないかと思えた。 1972年というと、筆者はまだ赤ちゃんの子育て真っ最中であったが、オリンピック大好き人間として、テロによる競技中止は、大変なショックであったことを思い出す。 30年ほど前に、ミュンヘンに滞在した時、酷く暑くて、しかし、1流ホテルでもエアコンは全くついておらず、「暑い暑い」と文句タラタラだったことだけ記憶している。 その後、地球上全体が暑くなってしまった今、あのホテルは今、エアコンをつけたかなあと時々思い出すのである。 さて、話は代わる。 今年は首都を焦土と化した「東京大空襲80年」である。 今年の3月10日に80年を迎えるにあたり、向島にある『すみだ郷土文化資料館』が、令和7年2月15日から5月25日まで、大空襲の企画展を開催している。 以前から「東京大空襲」のニュースが伝えられる度に、筆者はその記録を見学したいと思っていたのだが、やっと今回実行できた。しかし、この『すみだ郷土文化資料館』に辿り着くまでが大変だった。 根っから山の手族の筆者は、近くに建っている東京スカイツリーへも行ったことはないし、東京の東半分はほとんど未知の世界だ。教えられた地下鉄浅草線の本所吾妻橋駅から『すみだ郷土文化資料館』まで、タクシーを拾うつもりがとんでもなかった。 車は来ない。交差点で声高にチラシを配っている某政治団体の男性が、「近頃タクシーは来ないですよ」と教えてくれたので、結局、スマホ片手に7,500歩も歩きに歩いた。 資料館の電話に出た係の人の教え方も下手くそ。カラッと晴れた午前中の下町を、ヨタヨタと歩いて、自宅を出てから2時間後にやっと資料館に着いたのである。 当館は空襲80年に向けて、空襲体験者の証言映像の制作を行うほか、空襲を伝える活動をした人の証言映像も制作する。 両国にある工藤写真館の初代主である工藤哲朗という人が、両国橋両岸地域の空襲被害状況を撮影していた。この工藤さんの身分証明書が展示されている。 当時の証明書のディテールがわかる。 「身分証明書 本籍 云々 現住所 云々 防務 班長 工藤哲朗 明治二十三年五月十九日生 血液 A型 発行日 昭和十九年十月十日」とある。 昭和19年10月10日と言えば、戦争末期、血液型が書かれていたのは全国民であった。 「国民学校(小学校)の地下室は防空壕だったか」という纏めの中に、当時わずか5歳の石田恭子さんという人の絵がある。 扇橋国民学校の地下の防空壕にギッシリ詰め込まれた人々の折り重なる姿である。 手前には赤ちゃんを抱いた若いお母さんがいて、その後ろは奥の出口に殺到する無数の人々が描かれている。とても5歳の観察力とは思えない。 出て行った人は皆焼け死んだと思われるが、石田さんは母、兄、弟と、「死ぬならここで」という母親に従って、防空壕に残り生き延びたとある。 阿鼻叫喚の姿である。(2025.2.20) (無断転載禁止)