今から何十年も前だが、私はよく歌舞伎座に行っていた。もちろん、歌舞伎座のビル化以前のことである。 1980年に放送された安宅産業事件をモデルにしたと言われる『ザ・商社』(NHK)は、かの大物演出家の和田勉ちゃん(失礼、私は審査委員会などで親しくなって、こうお呼びしていた)が、数々の賞を取った素敵な4回連続のドラマだったが、ここに安宅産業倒産をモデルにした内容の準主役・江坂産業社主の役で先代の片岡仁左衛門さんが出ていた。 先代の仁左衛門さんの時には、ご本人は本名の孝夫で歌舞伎に出ていた今の片岡仁左衛門さんのことが大好きで、私は関西歌舞伎には関心がなかったのに、この頃から人間国宝・片岡仁左衛門さんの大フアンになったのである。 1つには亡夫が大学で教えていた時、学生たちに片岡さんに似ていると言われたとかで、関心をもったこともある。 あんな大名跡を引き合いに出すなんて申し訳ないが、片岡さんは面長、亡夫はもっと短い四角型の顔だが、笑顔が優しくて確かに似ているのである。 上方歌舞伎育ちの孝夫さんが歌舞伎座にお出になるようになった頃から、私は東銀座に出向くことが多くなったのであった。ほとんどいつも1人で鑑賞した。 高いチケット代を払っているのに、夫は終始一貫居眠りをするので私はブチ切れた。 だから、クラシック音楽のコンサートでも、大抵1人で行くことにしている。 今回、本当に久しぶりに歌舞伎座に出かけたわけ。 物書き業で、パソコンの前で蟄居しているのに、昔からの仲間の親友たちがいろいろと誘ってくれるので、時々は付き合う。 友人の1人(男性)は歌舞伎座のオフィシャル・パートナーという資格を持っていて、團十郎の襲名披露公演に行こうと言う。先月は私の予定が立たなかったので、「十二月大歌舞伎」に行くことになったのだ。 彼は物凄い気の利く人で、この日もチケットは手配してくれるわ、プログラムは買って来てくれるわ、折詰襲名弁当(2,400円)は受け取ってきてくれるわ、ナーンにもしなかった夫とは大違い、私はお姫様気分で座っていればよかった。 折詰襲名弁当は錦糸卵を乗せたちらし寿司に、エビフライ2本、蒟蒻、他10種類ぐらいのお野菜やつみれ、酢の物やもろもろ。薄味で美味しかった。 天気のいい日で、午前10時過ぎに歌舞伎座の前に立つと、「市川團十郎白猿襲名披露 十二月大歌舞伎」と題された巨大な看板が立っていて、真ん中には、えんじ色の裃に黒紋付の正装で、座って挨拶している團十郎さんと新之助さんの写真が掲げられている。 お客が次々にその前に立って記念写真を撮っている。 開演は11時だが、開場は10時20分、ぞろぞろと客が入ってゆく。 私の席は友人が取ってチケットを送ってくれた「2階の西〇の1番<西桟敷>」という場所。友人が言うには、歌舞伎座のパートナーだから先行で買えたのに、2階3階の正面席は既に完売で取れなかったそう。 だから、横向きの席だ。靴を脱いで掘りごたつみたいな場所に足を入れるのだ。 面倒だけど、これでチケット代は18,000円でござい! わあ、コンサートより高い。 花道の丁度真上の席で、スタッフがやってきて、テーブルを立てて、立ち上がって花道は見下ろしてください、だって。座っていたら花道は見えない。これで18,000円なのだ。 同じ桟敷でも「東桟敷」ならば正面に花道は見えたわけである。 開演近くなると、もう満員になった。ほほう、團十郎さん、売れてよかったわね。 この日の昼の部は『①、鞘當(さやあて)、②、京鹿子娘二人道成寺(きょうかのこむすめににんどうじょうじ)、③、歌舞伎十八番の内 毛抜(けぬき)』の3劇題である。 『鞘當』は文字通り武士のさや当ての話で、華やいだ廓の中で、お互いの刀の鞘が当たった伊達者同士のいさかい話を茶屋の亭主が割って入る。 面白かったのは、割って入る茶屋亭主の顔が、ハテ、どこかで見たぞ、と思ってプログラムを見たら、なんとなんと「茶屋亭主 照右衛門 中車」と書いてあるではないか。 銀座のバーでホステスさんたちにセクハラをやって、ドラマもCMも降ろされてしまった、あの、香川照之さんが、ちゃっかり歌舞伎には出ていらっしゃったのである。 しかも、黒羽織の目立つ姿で。私は彼の声で「え?」と気が付いたのだが、幸いなことに照右衛門の役はダブルキャスト、偶数日と奇数日で2人が演じるので、下手すると中車を見られないところだった。 『京鹿子娘二人道成寺』は有名すぎる絢爛豪華な女2人の白拍子の踊り三昧。 白拍子花子に勘九郎さんと菊之助さんの2人が、それこそ衣装の早変わりやら、小道具の持ち替えなどして、何十分も踊りっぱなし。よく振り付けを間違わないものだと感心するぐらい長い踊り場面が続く。 白拍子は実は可憐な娘ではない。恋人安珍に裏切られた清姫が大蛇に化けているので、最後は大きな撞鐘の上に跨って、退治するためにやってきた大舘左馬五郎照剛に抵抗する。 左馬五郎照剛は襲名披露したばかりの市川團十郎さんが演じている。 荒事の典型である。踊りが長くて團十郎さんが出てくるのは、最後のちょっとだけ。 さて、この日の白眉は『毛抜』であるが、紙幅が尽きて細かい説明が出来ない。 新しく八代目新之助を襲名した、まだたった9歳の堀越勘玄くんが主役。 可愛らしい少年が、粂寺弾正に扮して悪人たちを退治するのだが、残念ながら、まだ子供ちゃんのボーイソプラノでは響きが少なくて、聞こえにくかった。 私は検査したら100%と言われるぐらい耳のいい人間だが、折角の主演の長セリフが聴こえないことがあり勿体なかった。感度のいい隠しマイクをつけてあげれば? それにしても十三代目の市川團十郎さん、八代目の新之助さん。これから大変だろうが頑張ってください。応援しています。(2022.12.10.) (無断転載禁止)