筆者の感覚では『海の沈黙』といえば、間違いなく、フランス語の小説、『Le Silence de la Mer』である。映画化もされたヴェルコールの作品だ。 占領されたフランスの少女が、ナチスドイツの将校に全く口を利かなかったのに、最後にひと言、声をかけるのだ。「さようなら」と。 今回は倉本さんのオリジナル脚本による映画であるから、最初は頭がこんがらかった。 タイトルは同じでもトラブルにならないのか? 映画は冒頭、大作絵画ばかりの展覧会から始まる。 世界的な有名画家である田村修三(石坂浩二)の展覧会で、突然、田村が「これは贋作だ」と1枚の海の絵を指さして怒鳴り始める。 「僕の描いた作品ではない!」 メディアも大騒ぎになる。 田村画伯の絵の上に、何者かが風景を上書きしていたのである。 大事件だった。 これで、画廊のトップの自殺騒ぎとか、いろいろと起こる。 一方、田村画伯の妻の安奈(小泉今日子)には、昔、愛し合った人がいた。 小泉今日子さん、しっとりしたいい中年になっている。 話は脱線するが、昔、ある雑誌に書きまくっていたころ、筆者の担当編集者が、熱狂的なキョンキョンフアンで、仕事にならなかった時があった。 彼女は独特の美人だから、フアンが多い。 その安奈の愛し合った人とは、かつて新進気鋭の天才画家と呼ばれていたが、突然、世の中から姿を消した津山竜次(本木雅弘)である。 物語の途中まで主演の本木雅弘くんは登場しないのである。 見ている方はだんだんイライラしてきて「勿体つけるな」と思う。 本人より先に「30年、番頭やってます」と称する人が出てくる。 大スターの中井貴一さんである。白髪頭だ。 上手い出だしである。 津山竜次は世をはばかって身を隠していたが、この曰くありげで抜け目のなさそうな「番頭?」が30年も世話をしていたとはタダ者ではない、と観客は思う。 巧みな登場のさせ方である。 これから見るお客のために、これ以上の筋書きは書かないが、安奈は2度と会うことはないと思っていた津山を訪ねて、北海道まで行くのである。 不治の病で余命僅かな津山と、安奈は海辺で手を重ね合う場面を見ると、未だに彼のことが心に重く存在しているのかと見えるが、あっさりと津山の前から去ってゆく。 女の筆者から見て今一つ彼女の心理がわからなかった。 大画伯の妻として、一見落ちぶれた津山には、もう何の未練もないという事なのか? 終始一貫、狂言回し役のように登場する肝心の安奈の内面が、イマイチわからなかった。 津山の父親が有名な彫り師だったことをミステリー仕立ての縦糸にして、若いあざみ(菅野恵)を登場させているが、この女性はいらないのではないか。 以後、物語はパス。 監督・若松節朗、原作・脚本・倉本聰。 倉本さんの作品はほとんど拝見しているが、近くでは『やすらぎの郷』が面白かった。あの続編が見たい。 しかし、1974年にフジテレビで放送された『6羽のかもめ』が、筆者は1番好きである。 兎に角、テレビ業界の玄人向け(笑)内輪話を、これでもかこれでもかとぶち込んでいたのだが、何故か視聴率は振るわなかった。 それでも、フジテレビさんは頑張って、途中打ち切りにもせず、26回も続いたのだ。 今は亡き中条静夫さんが、大ヒット曲、『ちあきなおみの喝采』のフリを真似した。 「いつものように幕が開き・・・」のくだりで、右手を見せて上にあげるのである。 ここで、もう、視聴者は抱腹絶倒! このテレビドラマの打ち上げ会に、筆者は呼んでいただいた。 思えば、テレビ業界が豊かだったのだ。 まだ、駆け出しに毛が生えたぐらいの批評家だった筆者は、華やかな業界人たちのサンザメキにどぎまぎしていた。 挨拶させられたのだが、何を喋ったか記憶していない。「面白かった」理由を述べて、「だから、今日、ここに呼んでいただきました」と締めくくったら、どひゃひゃと受けた。 以後、辛口で通してきた筆者は、ドラマ作家の天敵となり、2度と打ち上げなどには呼ばれなかったのである。いい作品は諸手を挙げて褒めてきたのだが、1度でも辛口で書いたら10回褒めてもダメ。 さて、『海の沈黙』に戻ろう。 津山竜次が創作に呻吟して、カンヴァスに絵の具をたたきつけ、挙句の果てにぐちゃぐちゃに塗りつぶす。 生みの苦しみというより、『美』を求める内なる衝動を、具現化できない芸術家の苦しみを描いているのだろうとはわかったが、つくづく、天才を可視化するのは至難の業である。 余命僅かの肉体で苦しむ津山の内面を、本木雅弘くんは熱演してくれたが、残念ながら、凡人には余り的確には伝わらなかった。 けれど、彼は元々「モックン」と呼ばれるお兄ちゃんタレントだったのに、今や1流の演技者に成長していて素晴らしい。 かつての『おくりびと』といい、当作品といい、シリアスな作品の中心人物を堂々と演じて何の遜色もない。いつの日か、ハリウッド作品に出て、アカデミー主演男優賞を取ってもらいたいものである。(2024.11.30.)。 (無断転載禁止)