俳優ダニエル・クレイグ5作目にして最終章だと書かれている映画、『NO TIME TO DIE』を観た。ダニエル・クレイグ版の『ジェームズ・ボンド』集大成だと宣伝されている。 見ていない人のためにこういうことを書くと、マナー違反も甚だしいのだけれど、書かずにはいられない。つまり、最後の最後にボンドさんが、ワルの巣窟の島に乗り込んだはいいが、そこにミサイルが飛んできて、島ごと破壊されてしまうのだ。 たった1人残っていたボンドは煙の中に消えちゃった。 「あれ!? ダニエル・クレイグと共に、ボンド・シリーズは終わっちゃうの?」と1瞬思う。 商売人たちが、こんな目玉作品に見切りをつけるはずがない! と思って、まだ灯の消えた小屋の中でスタッフやキャストらの名前をズラズラズラと眺めていると・・・。 出た! 1瞬間文字が見えた。「James Bond will return」。 ははあ、やっぱり、別の俳優で「ジェームズ・ボンド」は登場するのだナ。 と安心したところで、本作についての1番の印象は、意外なものであった。 ハードボイルドの殺し屋ライセンス持ちのボンドが、今回の『NO TIME TO DIE』においては、MI-6を引退して、ジャマイカで恋人のマドレーヌと平穏に暮らしている出だしなのだ。ここで私は「へーっ」となった。と同時に「つまんない」だった。 あのジェームズ・ボンドは行く先々でいい女と巡り合い、適当にキスをしてベッドも共にし、でも、後腐れなく去ってゆくのがカッコよかったのに、何だ、恋人といるだって? 引退なんて年寄り臭い(笑)。 その恋人・マドレーヌにはボンドに言えない秘密があって、それで最初のドンパチになる。 マドレーヌ・スワン役のレア・セドゥという女優さんは、『007 スペクター』でも出演していた再登場なのだが、私、この女(ひと)のどこがいいのかわからない。 確かにミステリアスな雰囲気はあるが、横から見ると段差のついたダンゴッ鼻であるし、あまり美人と思えないのだ。兎に角、陰気臭いし、およそボンドガールのイメージでない。 大体、ジェームズ・ボンドは1人の女のために闘ったりしてほしくない。もっとスケールの大きい人類(?)のために働く大義名分があったらいいのにと思う。 冷戦が終わってからは、中国を敵にするわけにもいかず、何となくスケール感が矮小化されていると感じるのは私だけか。今回は科学者の誘拐が007お出ましの理由である。 監督はアメリカ人で、キャリー・ジョージ・フクナガというルーツが日系の人。どんなキャリアの持ち主か私は関心がないので、プログラム(写真ばかリで高い!)を見てくれ。 笑っちゃったのは、悪の権化がお能の能面を被って出てくるのであるが、最初はいいけど、別のシーンでは、小面(女の能面でコオモテと読む)の目が二重瞼になっていてずっこけてしまった。能面は究極の一重瞼じゃなかったっけ? 東洋人独特の一重瞼でしょうが(笑)。 あまり悪口をいうと、「営業妨害」とされたら怖いので、評価する点もずらりと書く。 まず、アクションシーンが素晴らしい。カーアクションも凄いし、船の炎上シーンも凄い。一体、どれだけお金をドブに捨てたんだと聞きたいくらいの破壊力である。 最近の映画はみんなPCを使ったバーチャル場面が全盛だが、この作品では、身体を張ったリアルなアクションが多くてワクワクした。 俳優では何といっても、恐怖の殺し屋・サフィンに扮したラミ・マレックである。 あの、『ボヘミアン・ラプソディ』で歌手のフレディ・マーキュリーに扮して、アカデミー主演男優賞に輝いたエジプトがルーツの個性的な俳優である。目がデカい。 『ボヘミアン・ラプソディ』では、最初に自分は反っ歯だと容姿をコンプレックスに思っているセリフが出てきた。 今回のラミ・マレックは残虐な悪のサフィン役だ。 目も怖いが、顔全体がなんかブツブツと湿疹みたいのが出来ていて、剃っていない短い髭と混然一体になり、顔全体がどす黒く、不気味である。 大きな目は、プトレマイオスやクレオパトラなどの、古代エジプトの人々を思い出す独特の魅力があるが、今回はその大きさでゾッとさせるのである。 ところで、肝心の主役のダニエル・クレイグはどうだったか。 彼は中々よかったと思うが、歴代のボンド役で私が1番好きなのは、やっぱり初代のショーン・コネリーである。彼には、余人をもって代えがたい色気があった。 特に好きだったのは1963年の『007 ロシアより愛をこめて』だ。 あの、哀愁のある主題曲も印象的だったし、ボンドの窮地を救ってくれる諸道具の入ったアタッシェケースが抱腹絶倒だった。あんな遊び心はたまらない。 ダニエル・クレイグのいい所は、あの青い目。気に入らないのは、あのおちょぼ口。どうでもいいけど、筋書きも含めて、崩しがたいショーン・コネリーの偉大なイメージをぶち壊そうとして来たご苦労様な俳優と思えて仕方がないのだ。 恋人も含めて、ボンドの内面まで描こうとするから、ショーン時代の「スカッと明るい」ボンドさんとは違い、何となく陰性でイマイチなのである。これは彼の責任ではない。 イアン・フレミングが書いたボンドの原作小説なんか、とっくになくなっているのに、延々と別の人たちが書き続けているジェームズ・ボンド。当然、キャラクター自体も変化するのは仕方がないが、大金を稼ぐハリウッド映画が、主導権を握って紆余曲折するのに付き合わされる俳優たちも大変だ。 コロナ禍の映画館では、緊急事態宣言がまだ解除されていなかったので、大きな小屋にまばらな観客であった。でも、久しぶりにIMAXの大画面で、スケールの大きなアクションを堪能した。チマチマしたTV画面ばかり見ているコロナ時代に、「映画館で見る格別な大作」は実に楽しかった。京都の竜安寺の石庭みたいな庭が出てきたので笑った。監督は日本びいきなのね。(2021.10.10) (無断転載禁止)