「パヴァロッティ 燦 燦 燦!」

 9月4日金曜日の大新聞夕刊、最終面に、目を剥くような大広告が載った。
『本日、3大テノールの王復活!
没後13年、圧倒的歌声とカリスマを映画館で!
 
アカデミー賞受賞 ロン・ハワード監督作品
 パヴァロッティ 太陽のテノール』 
 
 「歌と人生で世界を虜にしたスーパースターの素顔とは。幸せを贈るドキュメンタリー!」とある。これを見てパヴァちゃんフアンの私が見に行かないわけがない。
 コロナ恐怖もものともせず、早速TOHOシネマズ新宿で鑑賞してきた。
素晴らしかった。唸った。ニコニコしてしまった。さすが太陽だ。
 昔から、私は1人でパヴァロッティにつけた綽名がある。それは「1人ステレオ」である。例えば、プラシド・ドミンゴやホセ・カレーラスなどの名だたるテノール歌手の声とは違って、巨体の所為でもあるが、彼の声は左右横に広がり、1人で歌っていても、まるで大きなスピーカーをもつ再生音響装置のように横幅広く響いて聴こえるのである。
 ドミンゴさんらは鋭く前に声が突き刺さってくるが、パヴァちゃんは左右に幅広く広がって聴こえるのだ。しかも、ビリビリと響く。
 1935年10月12日、イタリアのモデナ市生まれ。お父さんは歌の上手いパン屋さんでお母さんは主婦、ルチアーノの声が心に響くと彼の才能を見出す。父母は彼を溺愛した。
 最初の妻、アドゥア・ヴェローニとの間に3人の娘。ロレンツァとジュリアーナとクリスティーナがいて、3人ともあまりルチアーノに似ていないが、インタビューは面白い。小さい頃、娘たちはパパ・ルチアーノが夕方になると衣装や付け髭などの小道具を持って出かけるので、きっと商売は「泥棒」だと思っていた(笑)のだとか。
 両親に愛され、娘たちにも愛され、彼の周りには女だらけ。髭だらけの顔を破顔一笑させて女たちに可愛がられている笑顔がドアップで映る。
 インタビューは悪名高いマネジャー、オペラ批評家、プロモーターなどの仕事関係から、指揮者のズービン・メータ、歌手のプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスやソプラノ歌手たち、ピアニストのランランなど多彩で、みんなが何となくニコニコしながら喋る。ルチアーノが如何に人々を幸せにしたかの証明である。
 「60歳も過ぎているのに再婚なんて・・・」とオバサマ方に顰蹙も買った最後の妻、ニコレッタ・マントヴァーニの長いインタビューは、ホームビデオでルチアーノのプライベート姿を知らしめる。23歳の学生時代に知り合い34歳も年上の彼と2003年に結婚した。双子の1人、ルチアーノが渇望した男の子は死産で、女の子だけが育った。他に愛人が1人。
 前妻とは険悪になったが、後に孫が出来て以来、仲直りしたらしい。人間的だ。
 印象深い彼のオペラ出演を鑑賞したのはもう晩年であった。巨体のために膝が悪く、ステージでほとんど動かずに突っ立ったままで歌った。2004年、メトロポリタン歌劇場の『トスカ』公演で、椅子につかまって痛々しかった。当時の彼は68歳、声は朗々としていた。
 それより何より、パヴァロッティと言えば、三大テノールである。私は3度の日本公演をすべて聴いた。お金がスッカラカンになった。
 最初は国立競技場で、高かったのに後ろの方の席で、頭に来たので、当時連載していた週刊新潮の私のコラムに「がめつい」と文句を書いたら、主催したフジテレビから後日、テレホンカードかなんかを送ってきた。会場で偶然私の姪に出会った。
 2度目は1999年、1月9日、東京ドームでのニューイヤー・コンサートである。留学していた息子がお正月で帰国していたので一緒に行った。
 3度目は2002年の横浜アリーナ公演である。割にいい席が取れて、座ったら、あらら、すぐ隣に見たことのあるお方が座っている。有名なマネジメント会社ナベプロの副社長である渡辺美佐さんであった。勿論、面識はなかったのでご挨拶はしなかった。
 パヴァロッティさんを生で聴けたことは私の得難い財産である。オペラにおける扮装したパヴァちゃんより、白いハンカチを持って巨体を揺らしながら登場する可愛い笑顔の三大テノールの彼の方が、はるかに親しみやすくて好きだった。
 1935年は日本式に言えば昭和10年、まだまだ元気な人はいっぱい生きている。もっと長生きしてほしかった。
 映画では、晩年の公演で、出てきた客に辛口に喋らせている。彼のトレードマークの「ハイC」が出にくくなっているとか、チャリティで共に共演したU2のボノたちとの仕事で、芸術にあるまじきと叩いたオペラ界とか、あれほどの才能のビッグスターでも、人生いろいろ辛いことはあった。それを今回のドキュメンタリー映画では、清濁併せ飲んで、最後は『誰も寝てはならぬ』のアリアで終わる。
 また、残念ながら日本公演ではないが、三大テノールの公演で、ドミンゴとカレーラスとパヴァロッティの3人が、煌めくように装飾音符で歌を飾った刺激的な場面があった。テノールの高音域で絡み合う場面の恐ろしくも興奮するシーンは、彼ら3人だけに許された芸術家のあそびである。聴衆の興奮もムベなるかなである。
 チャリティ精神で、パヴァロッティは故ダイアナ妃と最も親しい友人になった。私も記憶しているが、1997年にパリで事故死したダイアナ妃の葬儀にパヴァロッティが出席した時、カメラは彼の巨体を映し出した。
 彼はダイアナ亡き後10年は生きるのだが、既にこの時、悲しみゆえか歩くのもおぼつかないという雰囲気で、報道によれば一曲追悼の歌を歌ってほしいという要望を彼が断わったという。
 ツアーには故郷モデナのチーズを5キロも持参し、旅先でパスタを作り、豪快に飲み食いしつつ、娘の難病には仕事をキャンセルして付き添い、明るくパッパラバーに見えるが、実は非常に知的で精進を怠らなかった稀代のカリスマに「燦、燦、燦」である。(2020.9.10.)
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