「第77回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)をとった『スパイの妻』の脚本は、黒沢清監督と、彼の東京藝術大学での教え子2人との共同作品である」

 1940年の神戸が舞台のスパイもの映画というと、すぐにでも飛んで見に行きたいほど関心があった。おぼろげながら戦前の神戸を私は知っているからである。
 黒沢さんは神戸生まれの65歳である。
 この作品は元々、NHKの8K用に撮られたテレビドラマで、それを劇場版として今度公開した。成り立ちが面白い。
 藝大での教え子の2人、濱口竜介さんと野原位さんが、神戸育ちの黒沢さんのために「神戸を舞台に8Kで映画を撮りたい。脚本を書くので監督をしてほしい」と連絡があったのが始まり。週刊文春10月22日号Close Up欄。および、映画パンフレット。
 黒沢さんは2人のことをどうしても教え子の学生としてしか見ていなかったので、最初は半信半疑だったらしい。
 2本の脚本がきて、その中の1本が時代劇の『スパイの妻』だった。
 2人の脚本では「最後が非常に非情(笑)」だったので、監督が手を加えて、希望があるように変えたという。ただし、この裏話を私は読みたくなかった。観客としての私は、常にメイキングのエピソードは知りたくないのである。物語に没入したいから。
 黒沢さんは2人が設定して書いてきた主人公の夫婦について、自分では「とても書けない」と言っていらっしゃる。濱口さんは1978年生まれ、野原さんは1983年生まれだ。
 さて。肝心の映画である。
 瀟洒な洋館の住人、福原優作(高橋一生)は福原物産を経営するカッコイイ男である。趣味は自分でフィルムを回して映画を撮ること。甥っ子の竹下文雄と妻の聡子(蒼井優)の2人に演じさせている。
 妻の聡子は夫一筋の可愛い女であるが、戦前の、「3歩下がって、夫の後をついてゆく」ように従順な女ではない。2人は疑いもなく愛し合っている。
 家には女中も執事もいて、豪華な自家用車を使っている。
 神戸に赴任してきた憲兵隊の分隊長・津森泰治(東出昌大)は聡子の幼馴染で、優作に言わせれば、泰治は聡子に懸想しているから、神戸に転勤してきたのだという。
 「この目で見ておきたい」と言って、優作は撮影機材をもって満州に渡った。
 その留守に、泰治が聡子に会いに来て、何でも洋風の福原家は世間の目を気にしろと忠告して帰る。時代が大戦前夜でキナ臭くなっている。
 優作は予定より遅く帰国するが、港に迎えに出た聡子が、喜んで優作と抱き合った横を、白い顔の若い女がヌメーッとした目で見て通る。彼女は優作が連れてきた。
 甥っ子の文雄は会社を辞めて温泉旅館「たちばな」に逗留して小説を書いているのだが、そこに若い女、草壁弘子を女中として住まわせる。
 この女が殺されて海に浮かぶ。犯人は宿の主で、弘子を強姦しようとして殺してしまった。
 彼女は満州で看護師をしていて、関東軍が密かに研究開発していた細菌兵器の詳細を知っていた。優作は関東軍の研究施設に向かう途中で、人体実験の犠牲になった現地人の死体の山を目撃する。私は731部隊を思い出した。
 このフィルムと人体図の書かれたノートを、弘子との関係を疑った聡子に、「絶対にない」と抗弁するために説明してしまう。優作は疑いもせず、ノートとフィルムを金庫に入れる。
 ところが、優作の味方のはずの聡子は、軍事機密で国家が侵してはならない国際法違反の証拠が書かれたノートを、事もあろうに憲兵の泰治に渡してしまうのである。つまり、愛している夫の秘密を国家権力にばらしたということである。
 この時の聡子の心理については何の説明もなく、解釈はどうにでもできる。ベタに考えれば弘子との関係をまだ疑っている聡子の夫への仕返し。あるいは、夫によって啓発されたクレバーな聡子の、スパイとして夫が拉致されないために、事前に証拠を提出してしまおうであるのか。監督も「聡子という人物が何をしたいのかわからない」と言っている。
 私の解釈はちょっと違う。憲兵の泰治は幼馴染で、世間で観られているような冷酷無比な国家権力の出先とは思わず、女として泰治が自分たちに悪いようにはしないだろうという甘えがある。
 スパイの嫌疑で文雄は憲兵に引っ張られ、生爪を剥す陰惨な拷問に遭わされる。白状して、優作も引っ張られるが、泰治は「心を入れ替えなさい」と忠告して釈放する。
 最後は、アメリカへ行くという優作に「2人で亡命しよう」という聡子。
 優作と聡子は別々に出る。聡子は夫が手配した貨物船の地下の箱に隠れて乗る。そこに官憲が来て聡子の密航はあえなく失敗するが、国際政治の場に提出するはずのフィルムは、何故か優作が撮ったおちゃらけの女スパイの素人映像にすり替えられていた。笑い者である。
 ここの解釈は色々だ。優作が貨物船に密航者がいるとチクった。だが、妻の命が奪われないように素人フィルムに告発内容をすり替えておいた。或いは、聡子が自分の金庫から盗み取って泰治に提供した行為の仕返し。
 いずれにしても、優作は聡子を捨ててアメリカに行ってしまった。「後記」に出てくるのは、優作は彼の地で死んだ。だが事実かどうか疑問である。戦後数年経って聡子はアメリカに渡ったというのだ。これが「自分は甘い」と黒沢監督が自虐的に言っている「何らかの救いや希望のある結末にしたかった」ということだろう。
 最後に私にとって蛇足に思えるシーンがある。精神病者の収容施設に聡子が入れられている。旧知の医者が訪ねてくると彼女は、自分が暗にき〇〇〇を演じているのだという。そこに空襲が始まり、鍵のかけられた病棟の患者たちも「早く逃げろ」と追い出される。
 密航を疑われた船室の場で、頭がおかしい女を彼女が演じたのか、或いは彼女を救うために分隊長の泰治が聡子は頭がおかしいからこんなことをやったのだと救ったのか。
 高橋一生くんが相変わらず上手い。港神戸の商社マンがぴったり。蒼井優ちゃんは格別美人と思えないのに、戦前の女を疑いもなく演じきっている。私は、悪いけど、邦画は余り好きではなく、よほどの話題作しか見ないのだが、これは面白かった。(2020.10.21)

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