6月28日(日)に終わってしまったが、日本人が大好きなショパンの展覧会を、練馬区立美術館で見てきた。このコロナ禍の中で「展覧会?」と思ったが、屁理屈をいう私は、「音楽家、作曲家の美術館展というのは成り立つのか?」と不思議に思ったので、百聞は一見に如かずと出かけたのである。 だってそうでしょ。音楽家の展覧会とは音楽を聴かせてナンボだと思うのに、場所は美術展開催館なのである。音楽家の業績、つまり、ショパンなら彼の『音楽』を聴いて初めてその仕事に触れられるわけだから、彼の顔を描いた絵ばかり見ても、面白くもおかしくもないのである。 平日の昼間だったのですいていた。西武池袋線中村橋駅近くの区立美術館は初体験である。以前、同じマンションに住んでいた友人がこの近くに越したなあ、と思いながら駅前の繁華な道を通った。 入り口でチケットを頼むと、なんと、高齢者はタダ。年中出かける上野の都美術やその他、結構入場料が高いので「タダとはね」と驚いてチケットをもらう。映画でもシニア料金は取られる。 空いていたから、完璧なソーシャルディスタンスで見られた。昼間なので圧倒的に女、それも中年の女だらけである。ショパンが女性にもてる作曲家の所為でもあろう。 女性2人をひきつれた、見るからに音楽学者か評論家という雰囲気のオジサンが、展覧会だというのに、エラソーに声を出して解説しながら歩いているので、ムカつく。監視員も注意しない。蘊蓄をひけらかすのであれば喫茶店ででもやってくれ。 ここで展覧会の内容を書いても意味がないので、すべてハショる。ドラクロワが描いたジョルジュ・サンドとショパンの肖像画がちょん切られて、今は別々の場所に所蔵されている謎についての解説などと、すでに見知った話が多い。 ショパンの『24の前奏曲集』のイメージ画は、ローベルト・シュピース(1884-1914)という人による1912年作の連作版画集である。鍵盤に傾いたショパンの横顔が描かれた表紙は素敵だが、曲のイメージ画は私にはあまりピンとこなかった。 この展覧会の売りはショパンによる直筆の楽譜の本物である。劣化を防ぐために薄暗い照明で展示ケースに入っていたが、『エチュード へ長調 作品10-8』、『ポロネーズ へ短調 作品71-3』の2点。他に、ショパンが書いた直筆の手紙も数点ある。 私は目の検査で視力はそこそこあるつもりだが、薄暗い部屋の、黄ばんだ昔の直筆楽譜は見づらいことおびただしくて、ほとんどパスした。ギャラリーが群がっていたために敬遠したのでもある。 まあ、ポーランドにとっては国家的秘蔵財産なので、展示してくれただけでも有難い。私は音楽家ではないので譜面にそんなに関心はなかったし。 2階3階と見てきて、3階の別室になっている部屋に入ろうとしたら、入り口に太めの女性館員が立っていて、どこから来たのかと聞く。順路通り来たのに間違いないのに、目を吊り上がらせて咎めるように聞くので、順路で来たというと、「エレベーターですか」とまた聞く。 「エレベーター?」と私は問い返した。エレベーターなんかあるところは通らなかったので、「階段ですよ」と答えると、すかさず、女は「チケットを見せてください」と手を出すのだ。 どうやら、私は疑われているらしいのである。 「はい、これ」とポケットからチケットを取り出して見せると、フンという顔でソッポをむいたので、今度は私がブチ切れた。「何ですか、その態度!」 パンツ姿に野球帽(といっても、京都の祇園で買った高価なおしゃれ野球帽である)をかぶっていた私は、恐らく、ふらっとはいってきたモグリ客だと思われたらしい。いやしくも私は作家である。自分の取材目的で、くそ忙しいのに練馬くんだりまで足を運んできたのに、貧乏なタダのずるい客と間違えるとは、さすが場末の美術館のオバハン。人を見て物を言えと大層不愉快になった。 笑ってしまったのは、帰りに資料のために図録を買おうとしたら、女の子が「3,300円ですが」という。つまり、こんな高いものを買える客だと見られなかったのに違いない。図録だけはどんなに高くても私は買う習慣である。図録をぶら下げて入り口を通ったら、今度は「有難うございました」と複数の係員に最敬礼された(笑)。 さて、その図録の『第5章 ショパン国際ピアノコンクール』についてであるが、日本人がショパコン(ショパンコンクールのこと)に大いに関心があるため、大々的に1つの章を設けたのに違いないが、私は全く関心がなかった。というより、ある年から、このイベントを見放したのである。 曰く、「日本人の応募者が審査員にグランドピアノを贈った」とか、「向こうに住みついて、審査員のニワカ弟子になり入選した」とか、恐らく流言飛語の類いだとは思うが、ロクな話を聞かないから、すっかり関心が無くなってしまったのである。汚いことは嫌いである。 加えて、2000年の第14回コンクールで優勝した中国のユンディ・リ君が来日した時のことだ。 私は何故か日本での彼のデビューリサイタルに招待されたのである。サントリー大ホールのマン真ん中の特等席に座ったのだが、隣席は親しい有名な音楽評論家X氏であった。 曲目はすっかり忘れたが、当然、オールショパンのプログラムであった。 若干18歳のリ君は、つつがなく全曲弾き終えて、立ち上がった。 勿論、万雷の拍手である。 その時だった。X氏が立ち上がりながらニコニコして、私の方に向いて、でっかい声で言ったもんだ。「中華ラーメンだったね」と。 「しーっ。声が大きい。悪いわよ」と私は唇に指をあてて彼を制止したが、まさに言いえて妙で噴き出したのである。つーつーつーっと、ラーメンをすするような、メリハリのない弾き方だった。 日本デビューで18歳の若者は緊張の極みだったのに違いない。ひたすら、早く弾き終わりたい心理が先走って、つーつーつーっと行っちゃった。疲れる商売だナ、ピアニストって。 ユンディ・リ君が今どうしているか私は全く知らない。関心がない。 ショパンコンクールに関して、1つだけ関心が残っているとすれば、私が持っている沢山のクラシックCDの内で、マウリツィオ・ポリーニさんのことである。近頃、お歳を召したためかあまりいらっしゃらないような気がする。彼も弱冠18歳で優勝を遂げた。昔の審査は公正だったと聞く。 さて、ショパンの最後の地、パリのヴァンドーム広場には彼が最後を過ごしたアパルトマンがある。私はこの広場から悪党につけられて、パスポートから航空券まで入ったバッグを強奪された。展覧会を見に行っても、未だにその時の悔しさが甦る。ショパンさんにはご迷惑な話だけれど・・・。(2020.6.30) (無断転載禁止)