「センチメンタルジャーニー・神戸」

  小さい頃、一時期、神戸に住んでいた。
 父親が某軍需産業付属の学校の教頭だったので、一家で山の手の瀟洒な洋館の書斎が付いている家に住んでいた。
 ロの字型に家が纏まっているその辺りは静かな住宅街で、わが家の裏側には小児科医の自宅があり、私と同い年の美人の娘がいた。
  わが家は総領の姉は奈良女高師の学生で、家にはいなくて、長兄が中学生(旧制)、次兄は小学生、私はまだ幼児だった。
  私には神戸時代にいろんな鬱屈があり、成長してからたった1度だけ、大学時代に元の住家を尋ねたことがあるが、隣家の奥様の対応は冷ややかで、それ以後、2度と神戸には行きたくなかった。
  今回、何十年ぶりかで訪ねたのである。
  母が赤坂育ちだったので、私は関西弁にアレルギーがあり(しかし、阪急宝塚線の池田駅から登る呉羽の里に仲のいい従兄たちが住んでいたから、彼らの関西弁は気にならなかったという勝手さだが)、大阪はどうも苦手である。今も次兄がお城の傍に住んでいる。
  今回、空襲や阪神淡路大震災など、数々の災害に遭いながらも復活した神戸が、思ったより遙かに魅力的な都市であり、大阪とは違った1大文化圏であることを発見した。
  取り立てて観光したわけではない。
  コロナ禍の中、小池百合子都知事には「喝!」を入れられる県境を跨いで訪ねたので、街はガラガラで人が少なかったから、本来の繁華な神戸ではなかったのだが。
  ホテルは新神戸駅に隣接するANA クラウンプラザという超高層ホテルの26階。部屋は広々していて気に入った。幅広の窓から神戸港まで見える。美しい展望である。
  コロナで大食堂まで閉まっているので、お朝食はルームサービスなのだ。
  夜は大通りにある和食屋にネットで予約してあった。
  まことに安い。珍しい明石港で採れた桜鯛のお刺身だとか、穴子酢だとか、色々なニギリ寿司、絶品だったのは茶碗蒸しである。
  私は料理自慢なので、わが家の茶碗蒸しは大抵の店のより美味しい自信があるが、ここの茶碗蒸しもお出汁が薄味で美味であった。
  まだ若そうな板さんが黙々と調理してくれたが、L字型になった客席の短い片方に座ったので、長い方のお客たちの会話には入れなかった。アクリル板でがっちりと隔てられていた。
  翌日の朝、ルームサービスの洋食は、いつも私が頂く量の3倍位あり、手に負えない。それなのに一流ホテルにも拘らず安いのだった。
  チェックアウトしてから、神戸の街を車で走り回った。父が勤めていた某軍需産業の会社は今も基幹産業として残っており、広大な土地に高い高いクレーンが立っていた。すぐ先は港である。今は自衛隊関係の船を作っているらしい。
  幼い頃の記憶に微かに残る湊川神社とか、神戸、三宮、兵庫らの東西に連なる駅の前を横切って通った。どこかの駅では、次兄が父に連れられて、当時珍しかったエスカレーターで登ってゆく後ろ姿に、残された私が泣きそうなのを我慢して見送った記憶がある。
  六甲山系の神戸は、縦に進むと上り坂ばかりである。坂の上を越したところにあるN小学校は、私が後に入学した国民学校である。ピンク色のN小学校がまだあった。恐らくその辺りは空襲で焼け野原になったはずなので、戦後に建てられたものであろう。
 住宅街の町の雰囲気は、少し私が住んでいた当時の面影を残していた。どことなくエキゾチックで、静かなたたずまい。人っ子1人歩いていない。
  天候が怪しいので降りて歩けず残念だった。生きている間にもう2度とは来られまい。
  私が住んでいた家を歩いて探してみたかったが、叶わなかった。
  昔、坂を下ったところにあった貧相なN神社にはお正月に参るのが習慣だったが、子どもの好きな縁日屋台はなくて、ジャラジャラとぶら下がるお飾りしか売っていなかった。
  そのN神社が立派になっていて、坂を下りる途中に朱色の鳥居を何本もくぐった。なるほど、宗教法人は税金を取られないので金が溜まるのだ、と変なことを考えた。
  神戸と言えば異人館である。神戸北野異人館街は1大観光地であるが、私の記憶には全くない。それはそうだ。戦時中、アジア以外の外国は総て排斥された。
  野球だって、ストライク、ボールが言えなくて、敵性語として禁止された。ストライクは「よし1本」、ボールは「だめ」、と丸ごと横文字は日本語に置き換えられたから、異人館なんてとんでもなかったのだ。
  だから、神戸に住んでいても全く知らなかったのだろう。
  雨が土砂降りになってきたので、異人館のあたりは車の中から見て回っただけである。上の方に、パリと提携した証のパネルが張ってあると聞いたので見たかったが、これもパス。
  昔々、山の手のわが家から港の方を見下ろすと、お使いに下りて行った母が買い物籠を下げて、こちらの方に登って帰ってきた。食糧難の時代である。
  母の頭が見えると、坂で消え、また登ってくると、また消え。幼い頃の母の姿が映像のように心に残っているのだが、車のスピードでは、そんな情緒は味わえなかった。
  昭和20年代からずーっと東京人である私は、関東平野の平地に慣れていて、それが普通であった。今回、数十年ぶりに小さい頃、一時期住んだ坂の町神戸に行ってみて、母のことや長兄とのことや、記憶の彼方に消え去ろうとしていた様々を思い出した。
  だが、不思議なことに鬼籍に入った肉親たちのことが、感情的には全く懐かしくない。
  不連続に過去のシーンシーンは甦るのだが、色のないモノクロ写真のようで無味無臭。
  タイトルに「センチメンタルジャーニー」とは名付けたが、帰京してからのあれこれも気にかかるし、やっぱり過去よりも現実の事どもが張り付いてきた。
  帰宅したら弁護士が待っている。
  相続手続きのあれこれを片付けねばならない。
  ああ、貧乏性の私は、束の間の「感傷旅行」さえ出来ないのだった。(2021.5.18)
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