「女性は枢機卿にもなれない超保守男社会の権化、ローマ・カトリックの総本山で、新教皇を選ぶ秘密選挙。2転3転する事件はジェンダー現代のごとき人間臭い理由から。最高に面白かった映画『教皇選挙』は必見である」

 有料の小屋に2度も見に行った。
 初回はほとんどが高齢の枢機卿たちの候補者で、東洋人から見ると白人の、似たようなおじいさんなので、イタリア語の名前も覚えにくくて頭に入らなかった。
 2度見して、やっと頭に入った。監督、エドワード・ベルガー。
 何が凄いといって、枢機卿たちの衣装と豪華なシスティーナ礼拝堂ほかの重厚な建物である。エンジ色の丸い帽子と肩を覆うエンジ色のケープ、真っ白な法衣の下に、またエンジ色のスカート(?)。エンジ色の衣装は多分上等のビロードであろう。
 取り敢えず、簡単に物語を述べる。
 カトリック教会の最高指導者が心臓発作で急逝した。
 選挙(コンクラーベ)のために全世界から100人以上の枢機卿が集められ、首席枢機卿のローレンス(レイフ・ファインズ)が選挙を取り仕切ることになる。
 システィーナ礼拝堂と宿泊施設の聖マルタの家は、外界から隔離される。礼拝堂はひたすら豪華絢爛なデッカイ大広間で、聖マルタの家は長い廊下を挟んで個室が続き、まるで刑務所の独房つながりのようである。
 100人以上の枢機卿の名簿に名前が載っていない男が1人いた。
 ベニテス(カルロス・ディエス)というメキシコ人で、アフガニスタンのカブール教区から来たという。ローレンスが面会すると、前教皇が秘密裏に枢機卿に任命した人だという。
 ベニテスは色浅黒いが優しい顔立ちで、昔よく見た西部劇に出てくるおとなしい原住民のような雰囲気である。この俳優は短編に2度出ただけで、この映画の大役をオーディションでゲットしたらしい。
 いよいよ選挙1日目の朝。
 108人の枢機卿たちがそれぞれ紙に推しの候補者の名前を書いて、管理者の前の壺(?)に入れてゆく。
 全体の3分の2以上の72票を得なければ当選にはならない。
 第1回の結果で首位に立ったのは、アディエミというナイジェリア教区からきた黒人枢機卿である。黒人教皇が実現したら史上初である。
 枢機卿たちには派閥もあって、保守派、リベラル派、リベラル派を嫌悪する強硬な伝統主義者、などなど、簡単にはいかない。
 首席枢機卿のローレンスの親友のアルド・ベリーニ(スタンリー・トゥッチ)はアメリカ出身で、リベラル派。「コンクラーベは戦争だ」とローレンスにハッパをかける。
 彼は保守派のトランブレ枢機卿(モントリオール教区)やテデスコ枢機卿(ベネチア教区)を敵対視していて、これらライバルの動向に耳をそばだてている。
 男社会のゴリゴリのローマ・カトリックでは、女性の枢機卿はあり得ない。女性は修道女シスターといって、どこまでも下働きのお手伝いさん扱いだが、修道女のトップのシスター・アグネス(イザベラ・ロッセリーニ)は「神様は私たちに目と耳をお与えくださった」と毅然として語る。
 この女優、似てると思ったら、イングリッド・バーグマンとロベルト・ロッセリーニ監督の娘だった。バーグマンは当時北欧の大女優で、筆者は2人の恋をよく覚えている。
 今は知る人ぞ知るレベルらしくて、あまり話題にしていない。若い人は知らないのか。
 さて。30年ぶりに突然やってきた黒人のシスターが、選挙でトップを集めていたアフリカのアディエミ枢機卿についてばらした。
 昔、アディエミはシスターを犯して子供を産ませ、子どもは他人に預けたという事実である。ローレンスに告白したアディエミは失脚しておいおい泣くのだ。
 ところが話の続きがあって、シスターをアフリカから呼んだのは、実は自分が当選したいトランブレ枢機卿であった。票を集めているアディエミ枢機卿を失格にさせるためであったが、この秘密もバレて、トランブレ枢機卿までもが候補者から消えてしまった。
 次々に消える候補者たち。
 その時、メキシコ人の新参者、ベニテス枢機卿が立ち上がって説く。大勢の死者を見て、紛争の只中から来た彼は「エゴやいさかいの虚しさ」についてスピーチする。
 枢機卿たちの感動を呼んだ。だが、彼自身も身体に問題があるらしくて、スイスの医者と約束しているのだ。
 これから後は語れない。
 何故ならば、最後の仰天オチに繋がるからである。
 オチを知ったら興味が半減どころか、無くなってしまう。
 それより、主演のレイフ・ファインズについて語らなければならない。
 1962年生まれであるから、現在63歳。終始一貫この方の顔のドアップが映る。
 首席枢機卿とは、沈着冷静にして、捌く時には権力も発揮しなければならない。穏やかで人の意見をよく聴く寛容さも兼ね備えているが、自身の信仰心に疑義も抱いている誠実な男である。
 画面いっぱいにドアップでうつされて、毛穴まで見える接近撮影にも耐える演技者である。下手くそだったら物語がウソっぽくなる。実に見事な主役であった。
 ローマ教皇と言えば、ポーランド出身のヨハネ・パウロⅡ世が飛んで日本にいらした時を思い出す。
 1981年の寒い2月だった。
 広島と長崎にいらして、確か、長崎では雪が降っていた。筆者はカトリック信者ではないけれど、テレビに噛り付いて中継を見た記憶がある。
 ヨハネ・パウロⅡ世はニコニコして優しそうな教皇さまであった。教皇選挙がかくも権謀術数まみれであるとは驚きである。(2025.3.30)
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