「ひたひたと顕在化してきた8050問題」

 友人のA夫人は如何にも下町のおばちゃんという風情の方で、趣味はオペラ(それも本場のヨーロッパで聴く)鑑賞という高尚さであるのに、普段はガラッバチのようなハスキーボイスでお喋りする親しみやすい人柄である。
 彼女が昔、息子さんの結婚について私にこう言った。
 「私ね、B(息子さんの名前)が思春期の頃から、口を酸っぱくして宣言してたの。貴方が28歳になるまでは何にも言わない。だけど、28歳になっても誰もつれてこなかったら、私が選んだ人と、貴方を、必ずお見合い結婚させる。だから、お見合いで決められたくなかったら、28歳までに必死でいい人を探して、私たちに紹介しなさい。いいわねって、毎日言ってたの」
 彼女は息子さんが口下手で、余り友達も多くはなく、ガールフレンドも簡単に作れるタイプではないのを見抜いていたので、いざ、結婚となると、いつまでも、30歳過ぎても無関心のままになりかねないと感じていたのであろう。
 さすがに頭がいいA夫人である。
 A夫人の喝破した通り、B君は口下手にも拘らず、ちゃんと30歳前に恋人を連れてきて親に紹介し、結婚した。
 今、A夫人のように利巧な母親が減っている。
 子供を適齢期には自立させるべく、親は心を鬼にして放り出さねばならない。
 そうでなければ、いつまでもいびつな親子関係が続く。
 少子化で核家族、少ない子供を猫かわいがりして、男の子の場合が特に顕著であるが、母親が子離れできない。母親も働いていれば、過保護の反対で過放任になったりするが、専業主婦の場合は、結婚もしない成人の息子を自宅にいつまでも住まわせて、ハタチ過ぎの息子のパンツまで洗う過保護母親が出現している。
 アメリカでは18歳になると、子供を家から叩き出す(!)そうだが、日本では親離れ子離れが遅い。その挙句、成人しても親にぶら下がるケースが増えたままだ。
 タイトルに挙げた『8050問題』とは、正に日本的親子関係のイビツさが表れた現象である。50歳になっても自立しないで、親の金をあてにしていたり、引きこもりになって働きもせず、無為徒食している子供と、80歳を越えた親とが、親の年金を生活費にして一つ屋根の下で同居している形態を言う。
 子供の引きこもりにはいろいろな原因がある。学校でイジメに会い、登校できなくなった子を不憫に思った親が、ずるずると引きこもった子供の世話に明け暮れて、結局、40、50歳になるまで寄生を許してしまった場合である。
 今や中年になった引きこもりは60万人とも言われていて、テレビでも社会問題だとドキュメントにする時代である。社会構造が悪い、つまり、1度挫折した人が、社会(働く)に帰りにくい状況が問題だと提言する学者もいる。だが今回、私は自分周辺の話だけを語る。
 知人にもいる。旧帝大系の1流大学を卒業したD君は、すんなりと1流の電機メーカーに勤めたが、10年位経ってから、突然会社を辞めた。父親は大学教授で母親は専業主婦、D君は1人っ子である。社交下手で、社会人なのに親族の葬式で久しぶりの親戚の人たちに会っても、きちんとした挨拶もしない。今は結婚もせず、親にパラサイトしていて、母親がDのパンツまで洗っている。私に言わせれば親の過保護が引き起こした結果だと思う。
 80歳過ぎた親は自業自得とはいえ悲惨である。自分たちの体力が衰えてきているのに、体力のある40、50歳の息子が1日中引きこもってゲーム三昧だったり、昼夜取り違えてゴロゴロしている。食費は全部親のわずかな年金頼りだ。
 気の短い私はこうした息子を持つ親に、「叩き出しゃいいのに。過保護な親が悪い」と思うが、そうもいかないらしい。
 元農林水産省で頂点の事務次官まで務めた熊沢英昭被告の事件は、『8050問題』の悲惨な結果の1つである。東大出身のエリート、熊沢英昭被告(76歳)が長男(44歳)の家庭内暴力に耐えかねて、刺殺し、自ら110番通報した練馬区の事件である。
 1審の結果は懲役6年、実刑であるが、殺人罪には珍しく、仮釈放された。
 1時は長男も別の家で自立していたが、事件の前に実家に戻ってきていた。長男は母親に暴力をふるい、彼の妹は前途を悲観して自殺した。省の事務次官まで出世した熊沢の日常はものすごく多忙だったに違いなく、発達障害と診断されていた長男の教育に、余り関われなかったのかもしれないが、主治医は、「よく面倒を見ていた」と証言している。
 ここまで極端でなくても、80歳過ぎた老親が、結婚もせず、日がな一日家でゴロゴロしている中年の息子をどうにもできない状態で我慢し続けている家庭は、多いのである。
 週刊新潮に連載されている林真理子さんの小説は、そのものずばりの『8050』というタイトルである。もう13回になる。
 私は新聞や週刊誌に掲載されている小説は全く読まないタチである。小説を細切れで読むのが嫌いだからだ。しかし、林さんの『8050』は読み始めた。毎週続けて読んでいる。
 林さんのエッセイは自慢話が多いのであまり好きではないが、彼女の文章は実に読みやすい。流れるように読み進められる。
 小説『8050』は歯科医師の息子が、中学2年の時から7年間自宅に引きこもったままで、昼夜が逆転。彼には姉がいて、姉の婚約者とその母親が自宅に来た時に、突然暴れだす。
 歯科医師の父親は息子が引きこもりになった元々の原因は学校でのイジメだったと察し、苛めた奴らを訴えようと弁護士に相談しに行くところまで進んでいる。
 息子を残しておけないと、この歯科医師は立ち上がるから、しっかりした父親である。大人の知恵と親の愛で解決に向かうのか、あるいはカタストロフになだれ込むのか、これからも続けて読むつもりである。
 私も40代の息子の母親であるから、親業の難しさは骨身にしみている。けれど、私の人生を豊かにしてくれたのは、その難しい親業であった。愛するわが子を40、50歳になっても1人前にさせられないとは、なんと勿体ないことか。親がバカだと私は思うのである。 (2020.5.22)

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