古関裕而さんといえば私は1番にハモンドオルガンを思い出す。主人公たちがすれ違いばかりで、私は「ウソっぽい」と思いながら聞いていたラジオドラマの『君の名は』の、今で言う劇伴は古関さんのハモンドオルガン演奏だった。 相当にフィクションが入っていると思うが、朝ドラ「エール」で描かれた『君の名は』のくだりがおかしかった。 劇作家・菊田一夫にあたる池田二郎(北村有起哉)が生放送前に、時間に追われて原稿を書き、それに古山(古関裕而・窪田正孝)が劇伴をつける。池田は最初、日本の3つの地域の社会派物語にしようと思っていたが、しっちゃかめっちゃか主人公2人の恋愛ドラマになっちゃったのだ。 私は当時『君の名は』を聴いていて、数寄屋橋での半年後にまた会おうという話から、後に舞台が佐渡になったり、北海道になったり、氏家真知子の応援隊の女性「綾」が神出鬼没で、「はてな?」マークばかりの全国どさまわりドラマだなあと思った。 裏話を知って、やっと合点がいった。 要するに切羽詰まってこんな風になってしまったのだ。真面目に聞いていた聴取者はバカみたい。社会派ドラマが「すれ違いの恋愛ドラマ」になってしまったというのも、生放送時代の産物らしい。 「女湯が空になる」都市伝説も当時喧伝されたが、私は銭湯に行ったことがなかったので、真実かどうか知らないが、私の周りの人たちが当時、ラジオにかぶりついて聞いていたことは事実である。 『君の名は』大ヒットの後、後宮春樹と氏家真知子から、春樹や真知子という名前が心に刷り込まれた。しかるに、後に私の次兄が婚約した相手が、「〇〇まちこ」さんだったので、わが家では「えーっ!!」となった。 でも、こつちの「まちこ」さんは文字が「真智子」で「真知子」ではなかったのである。 もう1つのおかしい話は、ラジオドラマのヒットで急遽映画が作られたのだが、主演は佐田啓二と岸惠子。ところが雑誌のゴシップ記事に岸さんの発言が書いてあった。 「私は真知子みたいにウジウジした女は嫌い」と書かれてあったのだ。あれほどインテリで頭のいい岸惠子さんが、恋人・春樹に会えなくて淋しくうな垂れるなんて、確かにおかしい。岸さんだったら、毅然と頭を上げて春樹を探しに行くはずだった。 当時は男に従うなよなよした女性がもてはやされたのだろう。だから、パキパキした綾という女性を配した。映画では淡島千景さんが演じた。 今の若い人たちは『君の名は』といえば『君の名は。』のアニメの方しか知らない。 時代は遡るが、『エール』の中で描かれた戦後すぐについても逸話がある。古関裕而さんがラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の音楽を作曲したのだが、特に主題歌の『とんがり帽子』は愛唱された。 この『鐘の鳴る丘』は事実に基づいており、ラジオドラマの主題になった<とんがり帽子の時計台>は今でも存在する。 わがセカンドハウスがある長野県安曇野市の穂高地区に移築されている。うちの別荘から車で数分行った先である。 2011年の春から放送された朝ドラの第84作、『おひさま』は舞台が安曇野だった。やはり戦前戦後の時代を生きた陽子(井上真央)が主人公だった。 それなのに、安曇野に現存する<とんがり帽子の時計台>は無視されたのである。 当時私は時計台を尋ねて管理をしている男性に聞いてみた。 「『おひさま』はここが舞台ですが、あまりこの時計台のことは出てきませんね」と聞くと、彼は吐き捨てるように言った。 「NHKは取材どころか一度だって挨拶にさえ来ませんよ」 つまり、脚本の岡田恵和さん初め、若いプロデューサーやディレクターたちは、安曇野という名前が素敵だから使っただけで、安曇野にまつわる戦前戦後の歴史なんか無関心だったのだ。のちに私は『おひさま』の女プロデューサーに文句を言ってやった。 『鐘の鳴る丘』は戦地から復員してきた主人公が、戦災で両親を亡くした子供たちが浮浪児となって靴磨きなどで生活しているのを見て、なんとか彼らに住家を与えようと努力してゆく物語だった。 NHKにも、戦後すぐなので(22年)プロの児童劇団はなく、出演する子供たちに困り、劇団関係者の住所があった練馬区の素人の子供たちが出演したのだ。それは公立小学校なのに演劇などの文化レベルが高い練馬区立豊玉第二小学校の児童たちであった。 ちなみにわが家から、後に豊玉第二小学校の卒業生が出た。不思議なご縁を感じる。 今回のドラマ『エール』を見て私が大いに驚いたのは、古関裕而さんが、あんなにスポーツ関係の応援歌を描き、あんなに多くの戦意高揚歌謡を書いた人だったことだ。私の古関印象はどこまでもセミクラシックの叙情的な歌謡曲作曲家だった。 短調の哀愁ある品のいい歌謡曲で、藤山一郎さんの歌唱とも相まってよく歌われた。 ところが今回、『オリンピックマーチ』を初め、わが愛する阪神タイガースの『六甲おろし』やその他もろもろ、スポーツ応援歌の相当数が古関さん作曲なので本当に驚いた。 最終から2回目に、かつて、レコード会社の専属に推薦してはくれたが、何となく意地悪だった小山田先生(山田耕筰・志村けん)の、古山に宛てた手紙が出てきた。 小山田はイギリスの作曲コンクールで入選した古山の才能に嫉妬して、敢えて彼を通俗の流行歌部門に追いやったと告白している。これはフィクションなのか実話なのか知らないが、半年もの連ドラのオチとしては上手い描き方である。 少々ドタバタ気味の内容であったため、正統派の歌謡曲作曲家のイメージがおちゃらけに帰着しては困る。「古関裕而は戦意高揚の曲も書いたが、元来は大作曲家の山田耕筰が嫉妬するくらいの偉大な才能の持ち主だった」と言いたかったのだろう。モデルを許可してくれた遺族に対するエクスキューズだったのかもしれない。(2020.11.30) (無断転載禁止)