「リドリー・スコット監督の『HOUSE OF GUCCI(グッチ)』は、ファッション版コルレオーネ家一族の物語である」

  アメリカ映画の『HOUSE  OF  GUCCI』を見てきた。『グラディエイター』でアカデミー作品賞を取ったリドリー・スコットの監督作品だから、ほどほどには面白かろうと思っていたが、週刊文春の「シネマ・チャート」欄の評価が、5人の内で4人まで4つ星をつけていたので安心して見に行ったのだ。
  入場料に見合うだけの内容はあった。何しろ、私は長くアル・パチーノのフアンをやっているので、絶対に彼の出演作は見に行く。でもアル・パチーノ、年取ったなあ。猫背だよ。
  今回は、かの世界的イタリア大ファッション・ブランドGUCCI家の親族間の栄光と崩壊の物語である。
  つくづく大金持ちは大変だというのが偽らざる感想である。
  私は貧乏人でよかった。
  父が経営する運送会社で事務を手伝っていた22歳の娘、パトリツィア・レッジャーニ(レディ・ガガ)は、パーティーで知り合った青年のマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)に惹かれる。マウリツィオはこともあろうに大富豪のグッチ家創業者の孫だった。
  物静かな彼は弁護士になろうと勉強していて、実家の家業に初めはさほど関心もなかったのだが、無事弁護士になってから、諸般の事情で創業家を継ぐことになる。
  マウリツィオの父、ロドルフォ・グッチ(ジェレミー・アイアンズ)は、パトリツィアがグッチ家の財産目当てだと結婚に反対するが、一族の出席なしで2人は結婚する。
  パトリツィアはロドルフォの兄で、実質上のトップ、アメリカ進出を成功させたアルド・グッチ(アル・パチーノ)に気に入られ、次第にグッチ家の実権を握る立場に近づく。
  肉感的にボインのレディ・ガガが、あの大きな目を剥いてまくしたてる様は、つくづく「肉食人種」だと思わせ、とても我々草食人種っぽい日本人とはDNAが違うと感じる。
  そんな場面もあるのだ。アルド・グッチが世界進出に熱心で、いきなり日本語の挨拶をしてみたり、小柄でお辞儀をする複数の日本人女性の場面があったりする。とにかく、彼ら肉食人種の中に入ると、日本人は成人でも子供に見える貧弱さである。
  私が初めてパリへ行ったのは1990年代の初めだったが、例のブランド通り、サントノレ通りの外れにあったカバン屋に入った。
  夫がカバンのコレクターだったので、黒い牛革のショルダーバッグをお土産に買ったのである。そこの主・中年のオジサンは当時珍しく英語が話せる人だった。
  私は「マイ・ハズバンドのためにこれを下さい」と言うと、オジサンは目をまん丸くして言ったものだ。「おお、お前はもう結婚しているのか!」
  当時の私は結婚して何十年も経っていたのに、どうやらカバン屋の主は、私のことを10代の女の子と見間違えたらしい。それほど、私と友人は若く見られたのである。
  もう1つ思い出したことがある。
  友人でアパレル業界のOLをやっていた女性から、昔、GUCCIのファッションショーに誘われたことがあった。付き合いだからと、何か1つぐらい買わねばと思い、色々物色したがサイズが合わない。
  結局、真っ黒のノースリーブのニットインナーと長袖のカーディガンの一対を買ったが、Sサイズでも袖が10センチぐらい長く、どうにも私の体形に合わなかったのだ。たかが、細編みのカーディガンの値段が15万円であった。今でも持っているけれど、着る度に腹が立つほど着心地は悪い(笑)。
  アルド・グッチ(アル・パチーノ)の息子のパオロ・グッチ(ジャレット・レト)は余り冴えた人間ではなく、グッチのイメージとは違う別のデザインを模索したりして、パトリツィアはパオロを著作権侵害で訴えるなど、次第に一族の中に亀裂を生じさせてゆく。
  一族の人間と結婚しても、所詮、パトリツィアはグッチ家の血族ではない。実権を握るように見えた表面とは裏腹に、次第にマウリツィオとの夫婦間にも冷たい風が吹き出す。マウリツィオはかつてのガールフレンド、パオラと寄りを戻し、妻への愛情は冷えていった。
  これから見る人のために結末は書かないつもりだったが、演出上の疑問もあるので簡単に触れざるを得ない。
  追い詰められた妻のパトリツィアは、日頃から相談していた占い師のピーナの入れ知恵で、殺し屋を雇い、夫のマウリツィオを射殺させるのである。だけど、いきなり殺人かよ。
  私が疑問に思ったのは、この殺しの相談シーンである。普通のコーヒーショップみたいな所の庭先で、パトリツィアとピーナと実行犯のワル2人で能天気に殺しの相談をやっている。この当時、監視カメラはなかっただろうが、密室で相談するならまだしも、お天道様の下でアッケラカンと話し合うか? そんな秘密のことを?
  「シーッ、声が大きい」とは言っていたが、普通、部屋の中でひっそりやるでしょ。
  実録では、案の定、彼らは一網打尽に逮捕され、それぞれが長期の牢屋暮らし。パトリツィアは裁判シーンで、旧姓の「レッジャーニ」と呼ばれた時に、「グッチ」と言い換えさせる。また、夫が付き合い始めた女友達のパオラをグッチ家から追い払う。
  どこまでもグッチの嫁たる誇り高き女である。
  最後に言いたいのは、監督のスコットさんが絶賛してキャスティングしたという、マウリツィオ役のアダム・ドライバーのことであるが。私は彼のどこがいいのかさっぱりわからん。
  やたら背が高く、美男でもなく、笑った時に妙に頬にしわが複数出る。確かに、大富豪の御曹司らしい物静かな佇まいはあるが、はっきり言ってあれだけ美人のパトリツィアが追いかけるほどの、オスの魅力はない。若いころのアル・パチーノがもっていた、ふるいつきたくなるようなオスの色気とは程遠い。おーい、アダムフアンがいたら教えて・・・。
  最後のテロップにある。
 「現在、ハイブランドのグッチに、グッチ家の一族は誰もいない」ですと!
  私は大金持ちの嫁でなくてよかった。
  この映画の私なりの採点は、「B+」である。(2022.1.20)
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