4月某日、1月に昇天した夫の「お別れ会」を開催した。 コロナ禍の中で、都心のレストランを借り切っての会だったので、ドタキャンの方が大勢出るのではないかとハラハラしていたが、定刻より30分も前に、皆様がお揃いで来てくださり、感激した。たった1人だけ、イギリス人の昔からの友人が熱を出して前日にメールで遠慮してくれたけれど、心配することはなかった。 みんながインテリなので、いい加減な方がいなかったということである。 でも、30人も集めるイベント主催はしばらくノーサンキューだ。 下準備に疲労困憊した。 会場に並べる亡夫の過去の写真の引き伸ばしとか、故人のかかわった方に何人かお話をしていただくお願いとか、借り切ったレストランのオーナーとの打ち合わせとか、お土産のチョイスとか、雑用が限りなくあった。 「お別れ会」というと、来場者がみんな黒服で、神妙な佇まいでシズシズと会話もせず、というのが定番だが、私はそんな陳腐な「お別れ会」ならお金を出してまでやりたくなかった。何しろ、50年以上も一緒にいた人が突然、地球上から消えたショックは癒しようがなく、コロナのお陰で、親族だけの葬儀が余りにも寂しかったので、お友達も集めて、賑やかに故人をダシにして語り合いたかったのだ。 夫は大学を卒業してすぐ、毎日新聞東京本社に入社し、定年まで勤めあげた。 25年の勤続表彰とかしていただいて、定年後は12年間、大学教授であった。 毎日新聞では終身名誉職員との肩書も頂戴していたのだが、彼は家ではナーンにも言わなかったので、亡くなってから初めて私は知ったのである。控えめもいい加減にしろ(笑)。 大学時代は文学部国史学科の専攻であったが、実は授業より彼が熱中していたのはサークルである。東京大学舞踏研究会という社交競技ダンスのクラブで、彼はそのサークルの主将だった。エピソードを語ってくださった後輩のM氏によれば、彼は「雲の上の存在」だったらしい。つまり、キャプテン時代に東大の名を上げたので、伝説のキャプテンということだったようだ。 私は学生時代、全く夫のことを知らなかったので、舞研の主将の夫も全く知らなかった。 私は学年も下だったし、大体、会場でも喋ったが、私はクラシック音楽の同好会に所属していたので、舞研(舞踏研究会)のような軟派のサークルを軽蔑して(ゴメン)、「ダン研、ダン研」と呼んでいた。まさか、そこのキャプテンと結婚するとは思わなかった。 夫がキャプテンになってから、東京6大学の社交ダンスの競技会で、東大は2位に躍進したのだ。1位は早稲田大学。後にプロダンサーになられた方がキャプテンだった。 後輩のK氏のお話では、舞研の顧問の先生が、夫のダンスの力量を褒めてくださっていたらしいが、それと同時に、「生意気だった」とか。あり得る!(笑) 夫は両親に溺愛されて育ち、スラリとしていてイケメンで、恐らく、自分に出来ないものはないとでも思っていたのだろう。だから、生意気だったと思う。 そのくせ無類の照れ屋で、若い頃、カメラのレンズを向けると、すぐ、くるりとあっちを向いた。顔を写されたくないのだ。だから、当時のスナップはほとんどが頭の後ろばかり映っている。こっちを向いている写真も、何となくバツが悪そうに照れている。要するに、生意気男の自意識過剰ではないか、と。これは物書きの私の分析である。 ダンスをやっていたので、恐らく、女性の友達がウジャウジャいたはずだが、私は全く名前も知らないし、その方たちと何故、結婚話が出なかったのか、不思議である。 新聞記者になってからのことについて、T氏が面白いエピソードを話してくださった。夫は専攻が国史であったから、当然歴史には関心があったが、もっと好きだったらしいのは経済の話と車の話だった。車については、鈴鹿サーキットでの粋な写真が残っている。 1時は月刊エコノミストの編集部にいたので、証券会社の取材を通してか、自分で株の売り買いもしていた。はて、あの頃の株はその後どうなってしまったのだろう。 T氏は当時編集者で、23歳の時に夫に取材や原稿依頼で竹橋の毎日新聞社を尋ねた。毎日の記者に会うので緊張していたら、彼がやってきて、いきなり世間話を始め、それが延々1時間半も続いたのだそうだ。T氏とウマが合ったのだ。 夫は家ではほんとに無口で、何を考えているのかわからず、私はよく「貴方、本当に東大を出てるの?」と聞くぐらいだった。1時間半も喋る人が、私の前では無口だったということは、「女に経済の話をしても無駄だ」と思っていたか、私がどちらかと言えば藝術家の家系で、「ゼニコの話」に関心がなかったので話してもダメだと考えていたのか。 そもそも、自分が1番好きだったダンスについて、「軟派」とか「女にもてたいからやっていたんでしょう」などといきなり否定的なことを宣う私に、話し合う意欲が持てなかったのか。共通の愛の対象である子供と、遊びの麻雀や日常生活のあれこれを除くと、彼と私は、まさに水と油の性格だったと言えるかもしれない。 世間的にはいつも一緒で、友人たちから「おしどり夫婦」と言われたが、彼が亡くなってから気が付いたのは、彼の内実がどういう人だったかわからなくなっている。 T氏は夫が物書きとして優秀で、『アイアコッカ ルネサンス』の翻訳もしてくれたし、他社に先駆けて半年も前に版権取得の世話をしてくれた、と褒めていただいた。他にも『地球を駆ける男たち』とか、語学の本など、沢山、出版に関わっている。 しかし、この頃既に私は彼の女房だったはずなのに、全く知らない。勿論ギャラもなし。 長年連れ添っても、夫婦とはいったい何なのだろうか。多分、私が忙しすぎたのである。 私が専業主婦であれば、彼は得々と自分の関心事を話して聞かせたかもしれないが、内心は優しい(!)私の本質を見誤り、額面通りに彼の関心事を冷たく見ているワイフとしてしか見なかったのか。今となってはわからない。遅かりし、由良助。 「お別れ会」は好評で、お料理も美味しかった、予約をして食べに行く、「ほのぼのしたいい会だった、素晴らしかった」などと、電話やメールで皆様に喜んでいただけた。 私だけが「夫婦とは」と、若かりし頃の美しい彼の写真に、後悔を込めて語りかけている。(2021.4.19.)
『 本田哲夫 お別れ会 次第 』 本日はお忙しい中、お出かけ下さいまして有難うございました。故人に成り代わりまして厚くお礼申し上げます。進行次第は下記の通りです。ごゆっくりとランチをお楽しみください。 主催者ご挨拶。故人の略歴紹介。写真紹介。 献杯 蜷川真夫様(J-CAST 代表取締役会長 創業者 元朝日新聞『アエラ』編集長) お話 牧野功様(東京大学舞踏研究会主将時代の後輩で、今も奥様と社交ダンスのデモンス トレーションや色々な活動をなさっています) お話 武田光知様(毎日新聞社時代、『アイアコッカ・ルネサンス』出版―翻訳者―など様々な著書でお世話になったメディカルビュー社・講談社インターナショナル元編集者) お話 小林一夫様(習志野スコーレ企画代表、東京大学舞踏研究会――現・競技ダンス部の後輩) お話 吉田和彦様(在学中から東京大学古典音楽鑑賞会の親友の1人で、安曇野の本田別荘 や某八重洲の雀荘で遊んだ仲間。工学部→元三菱電機。つくば市宇宙開発のメンバーの1人) ソプラノ独唱 福田美樹子様(昨年、本田聖嗣がピアノ伴奏をして発売されたフランス歌曲集『あなたなんか愛していない Je ne t’aime pas 』のCDから、『愛の小径』を歌ってくださいます) 辛気臭くない、明るく楽しいランチ会に致します。コロナ対策としてはお店の方々の毎日 の検温など深く注意されているとのことです。ご安心ください。
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