「松尾貴史さんのコラムと田中真紀子さん」

 元総理大臣だった田中角栄さんの大邸宅が火事で全焼したニュースは、ショックだった。
 筆者の自宅から、ホテル椿山荘や東京カテドラル聖マリア大聖堂に行く時に通る目白通り(通称)を、どんどん車で東に走って行って、目白駅を通過し、さらに進むと右側に、鬱蒼と樹々の茂った大邸宅がある。
 そこが有名な太閤さんの目白御殿だった。
 今回、ここがほとんど丸焼けになったとは、本当に驚いた。
 800平米も焼けてしまったという。
 ニュースをたまたま見ていたら、ぼうぼうと邸宅が焼けていて、民放のどの局だったか、田中真紀子さんが赤いパンツをお召しになったラフな姿で、建物の横に立っていらっしゃるのが映っていた。
 ご自分の家が燃えているのに、悠々と立っていらして、流石は大物だと思った。筆者だったら狼狽えてアタフタしているに違いない。
 本当に2024年の新年は、元旦から次々と思いがけない事件や災害が起こる年である。
 元日の能登地方の大地震、羽田空港での民間機と海保機との衝突と炎上、めったにない大事件ばかりで、新年早々、今年はどうなることやらと心配になる。
 田中真紀子さんは、昨年暮れに突然テレビに出てきて、自民党の派閥や、今回の裏金問題について、相変わらずのダミ声(失礼)で痛烈な皮肉を言っていらして爽快だった。
 その、田中さんちの大火事である。
 驚くやら、「まだあそこに住んでいらっしゃるのか」と吃驚したやら。
 久しぶりにテレビに登場なさった直後の火事だから、余計に驚いたのである。
 田中真紀子さんの突然のテレビ登場について、筆者だけではなく、「久方ぶり」とエッセイでお書きになった人がいる。
 そのエッセイとは、『松尾貴史のちょっと違和感』というコラムである。
 以前は別刷りの日曜版に掲載されていたが、合理化(?)によって日曜版が無くなったので、近頃は本紙の中に掲載されている。毎日新聞である。2024年1月7日付。
 筆者は以前からこのコラムを愛読していた。
 松尾さんは芸術大学のご出身なので、添えられている似顔絵もものすごく上手い。
 ずーっと以前、何かのパーティで筆者は松尾さんとお話をしたことがある。内容は忘れたが、視線をそらさずニコニコしていたのが素敵な青年だった。
 ちょっと長くなるが『違和感』からの引用である。
 「前略・・・最近、久方ぶりに映像で田中真紀子さんの元気な姿を見た。自民党の裏金問題について『自民党は全部の派閥でしょうね。党全体がそういう体質なんですよ、ずっと。それが下までいっている』『うちの父のことを金権だと言っていた人たちが裏金派閥っていうことじゃないですか』と舌鋒鋭く快刀乱麻を断つごとき論評をしていた。他のインタビューでは『嫌でも野党に投票するしかない。駄目で数年しか持たなくても政権交代させて有権者が政党を作るんです。そういう努力を有権者が示して政党を鍛えるんですよ』などと正論を放っておられた。79歳とは思えない。よどみない立て板に水の口調で、鋭く有権者にも苦言を呈していた。もちろん、ここで彼女が言っている野党とは『第2自民党』を名乗る、
野党のふりをしているだけの、ギャンブル場を造ることに躍起の集団でないことは確かだろう。
 50年ほど前、かつて自民党総裁だったお父さんの田中角栄元首相は、選挙演説で『自由民主党が潰れても、やむを得ん。日本が潰れなければいいんだ。そう思うんですよ皆さん!政党の看板の掛け替えはききますが、国家民族の掛け替えはきかないのであります』と痛快に語っていた。
 本当に日本が潰れる前に、次の機会には投票に行きませんか。」以上、引用である。
 まことにおっしゃる通りである。
 田中真紀子さんのような論客には、もっともっと、永田町に居ていただきたかった。
 安倍さんはノーサンキューだったが、支持率下がりっぱなしの岸田さんは、人がよさそうで嫌いではないのだが、自民党政治自体が賞味期限切れだと思う。
 松尾さんが書いていられる通り、皆で投票率を上げて、政権交代した方がいい。
 どんな団体でも、長すぎれば倦む。
 あの、安倍さんの長期政権でいい加減うんざりしていたのに、いまだに延々と続く裏金政治で、いよいよ目に見える末期症状である。
 投票率は長期低落傾向に歯止めがきかず、SNSにうつつの若い人たちが投票に関心を持たない。民度が低すぎる。
 どうしてこの国の大多数の人たちは、同じ政党の政治で満足しているのか不思議である。
 話は突然飛躍するが、大昔のことを1つ。
 戦時中、筆者は都会から親戚を頼って、一家で、ものすごい田舎に疎開した。
 今放送中の『ブギウギ』の時代である。
 疎開先でも都会の人間には食料の配給は乏しく、あぜ道の草を取って茹でて食べた記憶がある。もともと食が細かった筆者には、飢えた記憶はないのだが。
 その頃のことで、小さいガキだったのに、何故か末っ子でませていた筆者には、忘れられない光景がある。
 それは、疎開先の村や町の電信柱や民家の壁などに、夥しい数の『〇〇〇〇』と同じ名前が書かれていたのである。筆者は不思議で仕方がなかったが、何故か親や兄たちに誰の名前?と尋ねることはしなかった。
 この名前の人はこの地方から選挙でいつも当選する代議士の名前であった。冠婚葬祭には必ずこの名前の人の使いが来て、地域の人も不審に思わなかった。
 戦争が終わって疎開先から引き揚げた後で、小さかった筆者は初めて知らされた。偉い人なのだと。後に『〇〇〇〇』さんは総理大臣になった。(2024.1.10)。
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