「小澤征爾さんのいいところは、大指揮者なのに庶民だったこと、変わらなかったこと」

 歳がバレるが、昔々、小澤征爾さんがバーンスタインさんの副指揮者として初来日した時、筆者は超下っ端のマネジャー見習いで、故郷に錦を飾った小澤さんが、旧赤坂プリンスホテルに宿泊していらっしゃるところに、譜面を取りに行かされた。
 小澤さんはニコニコして、「ここのシャーベットは美味しいですよ」と言い、いきなり筆者はカフェに連れていかれたのである。確かにとても美味しいシャーベットだった。
 後の大指揮者の若かりし頃、ホテルでシャーベットを奢ってもらった女の子は、他には誰もいまい。ご本人はきっとお忘れだっただろうが。
 昭和30年代の話である。
 それっきり、筆者は彼と接点はなく、むしろ、筆者が某週刊誌にコラムを連載していたころ、征爾さんの弟の、小澤幹雄さんからよくご連絡を頂いていた。
 「幹雄ちゃん」とお呼びして、彼が書く書物もよく拝見したものである。
 その後の指揮者の動静はメディアで知るほかに、筆者の同窓で、セレブのご主人と結婚した友人が、『成城』というハイソな街に住んでいるので、よく小澤さんのことを聞いていたのである。
 ある時は、「今日ねえ、薄汚れたストリートマンのようなオジサンが歩いていたので、誰かと思ったら、小澤さんだったのよ」と聞かされた。
 これこそ小澤さんのいいところで、全く気取らずに、有名指揮者ぶらずに、その辺を歩いている姿を、友人はしょっちゅう目撃していたらしい。
 指揮者と言うと、黒タキをピシッと決めて、背筋をピンと伸ばし、辺りを睥睨するナルシストを想像しがちであるが、小澤さんは正反対。猫背をものともせず、自然体でいらした。そこがみんなに愛されたところだったと思う。
 断っておくが、彼の音楽についてはプロの批評家に任せたい。
 話替わるが、1998年に、わが家は以前から買ってあった安曇野市有明温泉地帯の土地に別荘を建てた。筆者が設計したロフト付きの1戸建てだった。
 天然の温泉を引いたので、金食い虫だった。木曽ヒノキの1枚板を寿司屋のように使ってテーブルにした凝った家だった。木曽ヒノキは1枚が20万円もした。
 初めの頃はわが家のPTクルーザーで行っていたが、筆者がペーパードライバーだったので、夫が1人で運転しなければならなかった。息子は留学中であった。
 次第に夫の負担が大きくなり、近々は、中央高速バスか、中央線の特急で松本まで行き、松本でレンタカーを借りて、約40分かけて別荘に着くのが普通になった。
 人間は歳をとるのである。
 松本に着くと、バスターミナルも駅前にあるので、どうしても駅前広場を通る。
 そこに奇異なモニュメントがあった。
 今回の小澤さんの訃報で、何度かテレビに映った。
 『楽都・小澤征爾』と石に彫られている、はっきり言って冴えないモニュメントである。
 つまり、サイトウ・キネン・オーケストラが出来たころに作られたのか、筆者は知らない。
 20年以上前に、筆者は民間放送連盟賞の審査員として知り合いになった、長野放送の偉い方とある仕事をした。それは当地で小ぶりのコンサートを開催することであった。
 話題が松本のことになり、小澤さんの指揮なさるコンサートで松本は音楽フアンが喜んでいるでしょう、と言うと、偉い方は複雑な表情をして、首を振ったのである。
 「むしろ、松本の音楽フアンは憤慨していますよ、反対です」
 「えっ」と筆者は聞き返した。
 「小澤さんのお蔭で松本が有名になったのは確かです。でもね、地元の音楽フアンは聴けないんですよ」。えっ、どういうこと? 
 「小澤さんには大勢の追っかけ(今でいう推しネ)がいて、松本で行われるコンサートなのに、地元には30枚ぐらいしか配券されない。
  地元民はチケットも買えないのだそうだ。
 ほとんどの観客は東京から付いてくるので、松本でやる意味がないとまで言う。
 これはフェイクでも何でもなく、放送局の偉い方から筆者が直に聞いた話である。 
 当時と今は事情が変わっているかもしれないが、筆者は「へーっ」と驚いたのだった。
 世界的な有名人の小澤征爾さんには何の責任もないが、末端の事情は複雑なものなのだ。
 メディアで報道される表面だけではわからないことである。
 さて、小澤さんの「偉くなっても庶民だった」わけだが、ご家庭の育てられ方がよかったのは間違いないが、彼が武者修行時代に培われたものだと筆者は思う。
 先日亡くなられた小澤さんの前妻・江戸京子さんのお父様、江戸英雄さんは財界の大物、武者修行時代の小澤さんを援助なさったので有名である。
  小澤さんが卒業した桐朋学園の恩人である。
  英雄さんは征爾さんと江戸京子さんとの結婚式で、花嫁の父であるのに「私はこの結婚に反対である」とおっしゃったことは当時のマスコミでも伝えられた。
  案の定、2人は離婚した。
 昔から西欧では、才能ある貧乏な若い芸術家を援助するスポンサーがいたものであるが、クラシック音楽がまだ「東洋人に何がわかる?」と差別されていたころに、ヨーロッパ行きをスポンサードしてくれた財界人がいたのであるから、小澤さんの才能がキラキラしていたのに違いない。
 助けた江戸英雄さんは偉い。
 照れもせず、ひたすら音楽が好きで、恩恵を被った庶民の青年も清々しい。
 最後に辛口で1言。筆者もマスコミ席で取材した冬季の長野オリンピック開会式(1998年)で、小澤さんが指揮棒を振った「第9交響曲」は全くいただけなかった。
 何故ならば、オリンピックとベートーヴェンも「第9」も何の関係もなかったからで、これこそ東洋人の錯覚と揶揄されても仕方のない企画だった。(2024.2.10)。

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