4月6日放送であるが、10日には別の番組を取り上げたので、今回改めて再視聴した。
開口一番、英国のBBC放送のドキュメントが出る。
『THE MOST IMMACULACE EMPEROR』(この上なく汚れなき天皇)
1971年BBC 制作
「30年前、彼は世界で最も憎まれる人物の1人だった。
今や、ほほえむ皇后と穏やかな晩年を過ごす親しみやすい立憲君主として知られる。
・・・中略・・・
1945年、現人神から人間になった天皇。
全国各地に行幸(つまり、地方巡業)されている。
・・・後略・・・」と続く。
筆者も子供の頃、天皇の行幸を歓迎するために、引率されて行った記憶があるが、果たしてどこだったか小さかったので、さっぱり覚えていない。
兎に角、大勢の子供たちが先生に引率されて行き、遠くの豆粒の様にしか見えない天皇陛下の一団に手を振った。
天皇と一庶民との関係でいえば、戦争中の『大本営発表』がある。
NHKのラジオ放送が、突然独特の甲高い音楽に切り替わると、男のアナウンサーが言う。
「大本営発表。本日〇〇方面において、帝国空軍は○○・・・撃墜せり」云々と戦果を並べ、天皇の名のもとに称えるのである。
われわれ庶民(少なくとも体制に従順だったわが家で)は、ラジオ放送の音楽が始まると、家族全員が起立して、宮城(当時の呼称、今の皇居)の方を向いて頭(こうべ)を垂れた。
即ち、天皇陛下に対する敬意であった。
1945年9月27日。
天皇とマッカーサー元帥とが並んで映った有名な初会見の写真がある。
マッカーサー元帥はリラックスして写っているが、天皇陛下はモーニング姿の飛び切りの正装である。「全くこんな屈辱はない」と言われた写真である。
GHQの今でもある皇居前のあのビルの中だ。
1946年1月1日の朝日新聞。
『天皇、現御神にあらず。君民信頼と敬愛に結ぶ』
ひゃあ、当時の新聞の見出しはこんなに難しかったのか!
天皇が地方巡業し、「あ、そう」と庶民に語り掛けて人間宣言しても、飢えた民衆は皇居前に25万人も押し寄せて叫んだのだ。
「朕はタラフク 食ってるぞ。ナンジ人民 飢えて死ね」
1946年5月24日、天皇はラジオを通じて、食料問題で国民に呼びかけた。
この頃、筆者は田舎にいて飢えた記憶はない。
後半は人間天皇の外国訪問と大相撲見物と記者会見。
1971年にはヨーロッパ訪問である。
筆者は当時のニュースで見知っているが、日本の国旗が燃やされたり、車のフロントグラスが割られたりした。
ウィム・カンというコメディアンが「天皇の名のもとにあらゆる犯罪が行われた」と。
1975年には、いよいよアメリカを訪問し、当時のフォード大統領との晩餐会で、また有名なエピソードがある。
天皇はスピーチで29万人もアメリカ兵が亡くなったなど諸々についての詫びの言葉を述べられたのだが、通訳の逸話。
真崎秀樹という通訳は、天皇の言葉を「deplore」つまり、(強い遺憾を意味する)言葉に訳したのである。
1975には帰国記者会見。天皇はそれまで、宮内庁記者クラブ以外の記者たちと会見したことはなかったのである。
アメリカ軍の基地があり、第2次大戦中に唯一地上戦が行われた沖縄には1987年に行幸された。
1988年の戦没者慰霊式に出席したのが、昭和天皇が人前に出られた最後となった。
その後、天皇は腸ガンで長い闘病に入った。
この頃、筆者の近所の商店街のオジサンたちが、買い物に来た主婦族と交わす言葉は決まって「下血」だった。
大昔であったら、間違いなく『不敬罪』でやられただろう、『お上の出血』をニュースの度に読み上げるマスコミを、筆者は聞きたくないと思ったものだ。
巷の魚屋では赤い目出度い鯛などが売れなくなった。
1989年1月7日、午前6時33分、昭和天皇はお隠れになった。
1度書いたが、この後の御大葬の様子を、そのまま映像に取り込んで、脚本家の倉本聰さんがドラマにした。『失われた時の流れを』。
筆者も審査員の1人として、この作品に贈賞した記憶がある。
パリのエッフェル塔の空中の土産物屋に、エッフェル塔のミニチュアが売られている。
そこに、エッフェル塔を訪問した世界中の有名人の名前が書かれているのだが、何故か、昭和天皇のお名前が目立つように書いてある。
筆者が尋ねたのは30年も前であるから、今は知らない。
ヨーロッパの人々にとって、東洋の君主(?)は珍しかったのか、あるいは枢軸国の元首として、あちらでは超有名人だったのかもしれない。
皇室に関して、昔々は声を潜めて語らねば、憲兵が飛んでくると恐怖感があった下々の庶民からすると、このドキュメントのアッケラカンとした語り口は物珍しい。
いい時代であると言える。NHKさん、面白かったよ。
現代のタブーは、果たして何であろうか。(2026.3.21)。
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