「三島由紀夫が自決した日~映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を見て」

  1970年11月25日、私は妊娠9か月の重いお腹を抱えて、東京都下の狭い団地に住んでいた。この年の9月13日まで大阪で行われていた万国博覧会も、大盛り上がりだと報道されていたが、そもそも人が集まって騒ぐイベントに、臍曲がりの私は興味がなかったので、身重を口実にして行かなかった。
  夫は新聞社の学芸部記者で、朝、出て行ったきり帰宅は深夜、一日中、電話連絡もなければ、どこで何をしているのかさっぱりわからない。今のように携帯やスマホがあるわけでなし、そもそも昔の亭主族は仕事先から奥サンに電話連絡を入れるなどというのは沽券にかかわるという意識があり、出勤したが最後、ナシのツブテが当たり前だった。
  だから、帰宅後にも、昼間、外で何があったか何をしていたのか、何も語らない。
  私も既に物書きになっていたので頭の中が忙しい。当然、何も聞かない。
  今時の奥サンだったら、コミュニケーション不足を口実に夫婦仲の悪さとして問題にするところである。
  この日は違った。夫が昼間の出来事を喋ったのである。
  カーマニアだった夫は、社用にも拘らず、自分の車(この頃、若造がマイカーを持っているのは極めて珍しかった)で、四ツ谷駅前から外堀通りを通り、三陽商会のある坂を靖国通り方向に下って行こうとしていた。
  そこで、大渋滞に巻き込まれ、にっちもさっちもいかなくなってしまったのである。普段はそんなに渋滞する場所ではないのにだ。坂の下の向こうは自衛隊市谷駐屯地である。
  日頃穏やかな夫だが、自分が運転している時に渋滞に出会うと、人格が変わる。ハンドルを叩き出して「何やってんだ!」と怒鳴る。怒鳴っても状況は変わらないのに凶暴になる。
  この日は社用でどこかに出かけていたので、ブンヤの勘でおかしいと思ったのだろう。
  ようやく左折が出来て広い通りに出てから公衆電話をかけ、会社に「事件か」と問い合わせたのだそうだ。
  社のデスクは答えて曰く。「今、自衛隊のバルコニーで、三島由紀夫が演説している」。
  以後の顛末は報道されたとおりである。三島が組織していた楯の会のメンバーを引き連れて、陸上自衛隊東部方面総監部2階の総監室に乗り込んでいたのだ。
  私は既にテレビで三島が割腹自殺をしたと知っていたが、夫は別の仕事のために会社に戻らなかったので、あまり詳しくは知らなかった。今のように、すぐさまスマホで一億総「検索」する時代ではない。やっぱり情報元はテレビや新聞だった。
  正確には覚えていないけれど、2人で顔を見合わせて、「時代錯誤だなあ」と言い合った。三島さんと楯の会のイデオロギーや活動が、それほどメディアの話題にはなっていなかったこともある。「えっ、切腹?」の衝撃はあった。
  三島さんは夫の新聞社の学芸部によく顔を出した。
  ある時は剣道の防具を抱え、汗ばんだニコニコ顔でやってきて、学芸部の空いているデスクの前にドッカと腰かけ、上機嫌で喋りまくったそうである。
  あまり人の批判をしない夫が「三島さんはちょっとエエカッコシイだ」と言ったことがあった。そりゃそうだろう。もうこの時は有名な文豪の名をほしいままにしていたのだから。
  それっきり、三島割腹自決事件はわが家では話題にならなかった。われわれの結婚式にも来賓として来てくださったマンガ家の加藤芳郎さんが、新聞紙上の4コマ漫画で、「大宅さんが生きていたら、なんと言っただろう」と描き、余りの似顔絵の上手さに2人して感心したのは覚えている。大宅壮一さんはたった3日前に亡くなっていたのだ。
  つまり、この1970年には傑物2人が相次いで旅立たれたのだった。
  さて、三島自決の前年、1969年5月13日に、三島由紀夫は東大全共闘に呼ばれて、駒場の集会に出かけた。この時の東大生1000人と、たった1人の三島のトークバトル映像がTBSに残されていた。それが今回ドキュメンタリー映画として小屋にかかったのだ。
  年がばれるが、私は60年安保世代なので、70年安保やその前の東大安田講堂陥落時には既に社会人として関心が薄れていた。夫は新聞記者として安田講堂陥落は取材しているが、今回の映画になったバトルはあまり知らない。駒場の900番講堂にギッシリと全共闘の東大生が集まり、相手は三島由紀夫1人である。監督・豊島圭介。
  映画では「900番講堂」と言っているが、われわれ在校生は「九大講堂」と呼んでいた。
  何が面白いと言って、三島がとにかく楽しそうに議論していたこと。全共闘側は「三島を吊るし上げる」と息巻いていたのに、Tシャツでやってきて、明るい笑顔で自説を述べる三島に毒気を抜かれたか、「三島先生」と呼んだりしてまことになごやかである。
  論客の芥正彦さんはボブヘアーにゼロ歳の赤ちゃんを抱っこして超難解な議論を吹っ掛けるのだが、三島は尖がらない。この赤ちゃんは大物で、ピンクのオーバーオールに涎かけをして、1000人のお兄ちゃんたちの方を向いている。むずかりもせず泣きもせず、さすが秀才のパパの子だけあってクリクリ眼で話を聞いている。この映像が正に白眉。
  三島の護衛のために楯の会のメンバーが忍び込んでいたそうだが、さすがはインテリ集団、ヤバいことは起こらない。可笑しいのは三島で儲けまくっていた新潮社がカメラマンを派遣していて、その人が画面でウロチョロする姿だ。
  討論の画像の途中に色々な人たちが解説や三島について語る。楯の会から3人、全共闘から3人、他に三島研究の作家・平野啓一郎さんや瀬戸内寂聴さんらも、自前の三島論を展開している。私がもっとも意外だったのは、かつてイメージしていたド右翼作家の三島さんという嫌悪感が全くなくなったことである。学習院の卒業式で銀時計をもらった総代の三島は、「式の間中、微動だにしなかった天皇の姿」に敬服したと語るのは、三島が単に『天皇(勿論昭和の)ファン』だったからであって、これはいとも可愛らしいことである。
  三島は親に溺愛されて育ったに違いない育ちの良さが際立っていて、それが、この討論会場でも自然ににじみ出ている。激論の場面なのだが、何となくホンワカする。たった45歳(今のわが息子より若い!)の年齢で自死してしまったとは、実に勿体ない。『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』は一見の価値がある映画だった。(2020,3,29)
 
                             〔無断引用転載禁止〕