「新刊、『岸惠子自伝』(岩波書店)を読む」

   細い体に似合わず、岸惠子さんは精神的にも肉体的にも、猛烈にタフな方である。
  とても私は足元にも及ばない。私は子供の時から病気のデパートと言われ、ジフテリアで死線をさまよったし、腺病質で臆病で、神経質だった。
  岸さんはたった24歳で、トランジットだらけの飛行機に乗って、パリまで愛しい方を追いかけて行った。その行動力は、聞いただけで眩暈がする。本当にすごい人である。
  一気に自伝を読んだ。彼女の著作を全部読んだわけではないが、ある作品の中の、男女の機微の表現に涙した経験がある。
  兄より年上で昭和一桁の女性の、この行動力と、ある意味男性的なパキパキした思考と発言は、爽快この上ない。一緒になって「てやんでえ!」と言いたくなる場面が多々あった。
  文章がリズミカルで、勿体ぶった言い回しがなく、実に読み易い。
  以前、『30年の物語』だったかを贈っていただいたのでお礼状をお送りしたら、一部を使わせてほしいと連絡があって、新聞のご本の広告に使って下さったことがあった。彼女のテレビ番組に呼んでいただいたこともあった。その時のワインレッドのお洋服のセンスがあまりにも素敵だったので今でも忘れられない。
  岸さんの番組のプロデューサーだった方から、先日お電話を頂いて、「彼女の自伝を5冊買ったらねえ、マネジャーからお礼を言われました」と仰っていた。ファンは多いのである。
  私の中の岸さんは『君の名は』に遡る。ラジオドラマ『君の名は』のことよりも、当作品が映画化された時に、岸さんが女主人公の氏家真知子について、「こんなウジウジした女は嫌い」というようなことをおっしゃったと、嘘かホントか、従姉が購読していた雑誌に書いてあったのを読んだ。
 断っておくが、今の若い人は『君の名は』は知らない。
 『君の名は。』なら知っている。
  何作か前に放送されたNHKの朝ドラの『エール』では、『君の名は』の裏話が語られていた。表向きは悲恋のすれ違いドラマだったのに、裏話は滑稽だった。東京の数寄屋橋と、北海道と、佐渡ヶ島の3か所が出てきたのは、作者の菊田一夫が最初は正統派の社会派ドラマにしようと思っていたのに、忙しすぎて原稿が書けず、はちゃめちゃになったかららしい。
  この時にも若いPやDは当時のことを知らないので、リアルに「女湯が空になる」大ヒットラジオドラマを聞いていた我々には、周辺の裏話としては物足りなかった。
  相手役の佐田啓二さんがよくエスコートしてくれたエピソード、息子の中井貴一さんが、「あんなに良いコンビだった岸さんと親父はなぜ結婚しなかったの?」と聞いたというからビックリだ。
  映画の場面はこれまでもどこかで読んだ話も混じっていたので置いといて。
  私がこのご本で最も面白かったのは、岸さんが描いた身近な人々の、意図したかどうかは別として、たくまざる実像の表出である。
  最初にご主人のイヴ・シアンピ監督。彼はお医者様でもあり、クラシック音楽界の大先達、
  ピアニストのマルセル・シアンピとヴァイオリニストのイヴォンヌ・アストリュック夫妻の1人息子である。
  マルセル・シアンピさんはパリ・コンセルヴァトワールの有名な教授でもあった。つまり、岸さんのご主人は一流の芸術家夫妻の息子さんだから、どことなく坊ちゃん坊ちゃんしたお育ちの良さを感じる。
  頭髪が後退した天下の大映画監督というよりは、恋した女優さんを「いとしくて仕方ない」というように抱きしめ愛した男性ではないかと伺われるのだ。だからこそ、長い岸さんの不在が淋しくてたまらず、不倫をしてしまったのだろう。
  わが息子もこのパリ国立高等音楽院のピアノ科と室内楽科を卒業した。
  世界中から集まった、どこの馬の骨ともわからない青年たちを、難関試験をパスしたからといって、お月謝も取らずに教育してくださった天下のパリ・コンセルヴァトワール(国立)には感謝しかない。
  次には当然ながらお嬢ちゃんのデルフィーヌ・麻衣子さん。
  わずか10歳の時に、父親と別の女性の関係を察知し、1時田舎で行方不明になった鋭い感性の娘さんである。
  つくづく国際結婚の難しさを感じる。シアンピさんも岸さんも、最高の知的上流社会の人たちであるのに、思惑通りにはいかなかったようだ。娘の育て方ひとつとっても、どちらの言語を中心に教えるかで「何国人」が決まってしまう怖さ。
  お孫さんが2人もいるとはいえ、たった1人の濃い肉親である麻衣子さんを、岸さんは傍に置けなかった。大女優のゆえに。どこかクールな麻衣子さんの岸さんとの距離の取り方が、読んでいて悲しい。同じく母親である私の勘繰りすぎかもしれないけれど。岸さんが母親だったから、麻衣子さんは生れ落ちてすぐにフランスと日本の2つの国籍がもらえなかったとは、私は初めて知った。理不尽な法律である。
  通読して感じるのは、彼女ほどの大女優であれば、必ず、傍には誰か支える人がいるだろうと思う。だから、本当の孤独ではないと言いそうになるが、このご本を読む限り、岸惠子さんはたった1人で、異郷の地で自分の運命を切り開いてきたのは間違いない。
  初めは愛するご主人の大いなる支えがあっただろうが、それとても、外国語をマスターするにはとてつもない本人の努力と能力が必要である。
  私も大学でフランス文学科を専攻したのだが、自慢じゃないが全くモノにならなかった。仏文科の研究室は陰気臭くて人を拒否する雰囲気があり、入り込めなかった。
  古典音楽鑑賞会というサークルに入り浸り、卒業するまで仏文科にはなじめなかった。
  岸さんは上流社会のフランス語を完璧にマスターしたのだから物凄い。
  天は二物どころか三物を彼女に与えた。美貌と努力する力強さと、天性の文章力の才能を。
  こんなに美しい人はこれからも恋をしてほしい。「孤独」など道連れにせず、親子ほども年の違う美青年と腕を組んで歩いてほしい。(2021.7.10.)
                                    (無断転載禁止)