「堀川とんこうさんを偲ぶ会」

  5月24日、堀川とんこうさんを偲ぶ会が明治記念館で開かれた。
 5月24日は堀川さんのお誕生日である。
 全く申し訳ないことに、私は出席の回答をお送りしていたのに、数日前から物凄い眩暈に襲われて、ついに前日夜中、代理の者に奥様宛てのお詫びのメールを出してもらい、欠席させていただいたのである。人生長くやっているが、会合をドタキャンしたのは初めてである。
 本当に心苦しく申し訳なかった。
 私の眩暈はいわば持病で、木の芽時に時々出てくる。
 息子が中高時代、仕事が錯綜していて、真夜中まで原稿を書き、朝は5時起きでお弁当作りを続けていた上に、実家の母が長患いの難病の末に亡くなり、その事後の手伝いに行ったりしていて、遂にある時、世界中がグルグル回りだして倒れた。
 当時住んでいたマンションの親しい友人に助けられて、母親の看病に行ったり帰ってきたり、交通機関の中、眩暈でフラフラしながら見舞いに行くのは、本当につらかった。それ以来、ストレスがたまると突然世界が回りだす。自分の目玉を見ると、しっかり黒目が回転しているので気持ちが悪い。持病である。
 とんこうさんの奥様にはドタキャンして申し訳なかった。
 奥様からは、昨年、堀川さんの句集、「ひるの月」を贈っていただいていたが、私は読むのが辛かったので、最後まで完読はしていない。
 思い出せば、はるか昔、私は堀川さんと同じ年に同じ大学で学んでいたのだ。
 それを私は全く知らなかった。
 私はテレビに関するコラムを長く週刊誌に連載していたが、いわゆる業界人とはお付き合いをしなかった。自分の家で作品を見て、あーだこーだと書くだけで、その作品が有名人の演出家や脚本家のものであろうとお構いなしで感想を書いていたから、いろいろと不都合が生じていたらしい。
 1992年にTBSが制作した大型特別企画の『ジャック・アンド・ベティ物語』というドラマがあった。堀川とんこうさんが長年温めていた話で、大放送局の渾身の作だから、大向こうはみんながひれ伏す作品であるに違いなかったのだ。
 ところが、私は自分のコラムでケチをつけたのである。
 教科書に載っていたアメリカの明るい少年少女の物語なのに、私は嫌いだった。
主人公の「ベティ」というぺちゃっとした名前にも違和感があったし、私は素直でなかったのだろう、戦勝国アメリカに対する憧れも持たなかった。だから、作中の「日本の少年少女がみんな憧れたアメリカ」という認識に反発したのであった。
 はっきりとは覚えていないのだが(資料を出すのがめんどうくさい)、確かにちょっとばかり貶したはずである。要するに皆がひれ伏す有名P、有名Dの作品にケチをつけたのだから大問題だったと思う。つまり、業界のタブーに触れたのだった。
 ずーっと後になって、あの作品の作り手は有名人で、ドラマ制作の名手、こともあろうに私と同じ大学の同期で、あちらは英文科、こっちは仏文科の卒業生だということを知らされて、私はひっくり返った(笑)。それほど私は業界の常識に無知のままで書いていたのである。その人こそ堀川とんこうさんであった。ごめんなさい。
 それからずーと時が過ぎて、とんこうさんと同期の英文科出身の業界人と一緒に、私は堀川さんにご招待いただいた。そこで確か奥様にもお目にかかったと思う。
 堀川さんはいつもニコニコしていた。優しかった。
 私は小さいので、いつも上の方からニコニコ顔で見下ろされた。
 けれども、彼の本質は実に鋭い辛口の人であった。
 堀川さんがTBSを退職してプロダクション所属だった時だと思う。
 TBSの社屋の下で雑談していた時に、私は息子が音楽家なので、「ドラマの劇伴づくりに雇ってくださいよ」的なことを口にしたのである。特別売り込みに行ったのではなかったが。
 彼は例のニコニコ顔のまま、こう言った。
 「今のドラマ作りの予算がいくらか知ってる?」
 「総額が〇〇で、その内、劇伴の予算はねえ、たったの30万円なんだよ。版権の切れたお皿を回すぐらいしか出来ないよ。とても音楽家に作ってもらったり出来なくて、つまんない出来合いばかり使うことになるんだ」
 その時の彼の自嘲的笑顔は今でも忘れられない。
 もう1度、彼の辛口の思い出がある。
 2007年、テレビ東京で放送されたドラマ、『李香蘭』を彼が演出していた時である。
 お上の芸術祭で放送部門の選考委員を一緒にやったと思う。
 「李香蘭を作ってらっしゃるんでしょ。拝見するのが楽しみ」と私が言うと、例によってとんこうさんは、自嘲気味の笑顔でこう言ったのである。
 「だって、主演は上戸彩なんだよ」と。
 上戸彩さん、ごめんなさい。貴女を貶しているのではありません。多分、とんこうさんの年代だと、李香蘭、すなわち、山口淑子さんに対する特別な思い入れがあって、彼の中でのイメージと違っていたのだろう。
 これが、同期生、堀川とんこうさんとお目にかかった最後であった。
 長く患っていらしたのも知らなかったし、いただいた淋しい句集も悲しいから読めない。
 でも、名作『岸辺のアルバム』をはじめ、彼が残した名作テレビドラマはいつまでも残る。
 テレビが元気だった頃、一世を風靡したドラマ作りの大放送局の有名人たちは、つぎつぎに彼岸の人になる。テレビは若い人のネット・メディアにバカにされかかってもいる。
 こんなに時代が変わる中で、稀代の名プロデューサー・ディレクターだった「堀川とんこうさんを偲ぶ会」が開かれたことが感慨深い。
 どう時代が変化しようが、彼の作った名作たちは色褪せないで残るだろう。
 堀川さん、さようなら。(2022.5.31.)
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