「東日本大震災10年、あの時、私は何をしていたか」

 かつて、私は自分のサイトに東日本大震災当日のことを書いたのだが、サーバー事故で当時の原稿は失われてしまった。従って、しつこく、また書く。
 2011年3月11日、私は奈良にいた。
 子供のころから、亡き母がよく「関西ではね、奈良のお水取りが終わると、暖かくなって春が来るのよ」と言っていた。小さいころ東京の赤坂に住んでいて、青山小学校に通っていた母からすれば、関西の「お水取り」行事は珍しかったのだろう。
 だから私は1度でいいから、『奈良、二月堂のお水取り』というものを見に行きたかった。
 東京から京都まで新幹線で行き、近鉄奈良線に乗り換えて、奈良駅に着いた。タクシーを拾ったら、初老の運転手が突然「震度7だよ」と言う。
 「震度ナナ? 何それ」
 何も知らない私が「地震? 震度7つて、マグニチュード7の間違いでしょ」と言うと、運転手は「違う違う、震度がナナ」と主張する。「震度7? えーっ」。
 震度5でも大騒ぎなのに、震度7だって?
 最初は、なんかオーバーな運転手さんだな、としか思っていなかったが、チェックインして部屋に入り、早速テレビをつけて驚いた。午後3時頃だったと思う。
 もう津波に押し流される東北地方の映像が流れていたのである。
それからは、テレビの前に釘付け。これはただ事ではない。『震度が7』だ。
 夜、東大寺二月堂のお水取りを見に行ったが、地震報道が気になるし、何しろ寒かった。高い所に火がちらちらと移動して、われわれは寒さに震えながら下から拝むのである。
折角遠路はるばるやってきたのにうわの空だった。
  東京の留守宅には息子が様子を見に来てくれて、「本が散乱している」と電話があった。
 東京も相当に揺れていたようだ。奈良でもフロントのあたりで次第にホテルマンたちや
客が地震のことを話題にするようになった。
  後は一晩中テレビ漬け。
  あの津波の黒さだけは目に焼き付いて離れない。
 翌日、帰宅して驚いたのは、わが家も部屋という部屋で、書物が散乱し、相当に揺れたナと思った。息子が「1日中揺れていたよ」と言う。
 私はかつて酷い地震に遭遇した経験がある。
 1946年(終戦の翌年)の南海地震である。現在も南海トラフの大地震が起こらないかと不安視されているが、私は子供の頃、四国に縁故疎開をしていて、そこで南海地震に遭ったのである。
 親戚中が疎開をしてきている中で、伯父や叔母や従妹や従兄や、大勢が同居している日常に、子供時代から後の物書き体質のあった神経質な私は、大人たちに気を使って、毎日が辛かった。要するに無邪気な子供ではなかったのである。
 そこへ夜、大地震が来た。
 両親の様子や、兄たちがどんなだったか記憶していないのに、私が全身をガタガタ震わせて恐怖に怯えていた姿を見て、杉並の方南町から疎開してきていた伯母(母の兄の奥さん)が、「〇〇ちゃんが可哀そうだった」と後々言ってくれたほど、私の様子は尋常じゃなかったらしい。
 家屋などに被害はなかったのに、玄関の外に飛び出して、そこで震えていた光景だけは今でも思い出す。昔はとにかく地震というとすぐ外に飛び出したのだ。
 阪神淡路大震災の時は、高校時代まで仲の良かった友人のご主人が、家屋の下敷きになって亡くなった。遠く離れていたのになぜ知ったかと言えば、翌年、突然彼女から不祝儀の挨拶状を頂いたからである。神戸と東京と離れてウン十年も経つのに、なぜ今の私の住所がわかったのか今でも知らない。
 阪神淡路大震災の時、私は物書きとしてテレビ報道のチェックに忙しかった。亡き筑紫哲也さんが火災の様子を「温泉みたいです」と表現した顰蹙レポートに驚くやら、S誌に連載していたコラムで、当時の『ニュースステーション』を「CM抜きで放送した。このスポンサー名は忘れない」と書いてしまったら、早速、編集部から電話が来て、「そのスポンサーの名前を教えろ」と言われて大慌て。全スポンサー名はチェックしていなかったのである。バカめ。
 パリに留学中の息子には、今のようにPCも携帯もなかったので、高速道路がぐにゃぐにゃになった新聞写真を、ずらずらずらっと長く切り抜いて、FAXで送った。
 その内、パリの報道でも阪神淡路大震災のニュースが出た。
 思えば、人生の大半、日本中、どこに行っても地震の不安だけは逃れられない。
 今の一番の不安は、東京直下型の大地震が来ないかという恐怖である。
 それと、コロナ禍のためにあまりで歩かないけれど、地下鉄に乗っている時に、地震に遭遇したらどうしようといつも心配している。大江戸線のように、超深いところを通っている地下鉄で、電車が地震のために止まりでもしたら、私は間違いなくパニクル自信がある。
 非常時用の物品の備えも杜撰の極みで、水もあんまり交換していない。ダメだダメだ。
 しかし、しかしだ。
 こんなに酷い地震国の、ぐらぐら揺れる大地の上に住んでいるのだから、人知では何とも致し方がない。運命は天にまかせるしかないのである。
 夫の突然死という「一寸先は闇」の試練を経験して以来、私はいささか自暴自棄で、「人生どうにでもなれ」と思っている。
 物欲もなくなったし、おしゃれにも関心が失せた。
 食欲も減退して1か月で体重が5キロ減った。
 いよいよ明日は東日本大震災の10周年である。
 亡くなられた方々、未だに行方不明の方々、鎮魂の気持ちで当時の自分を書いた。ご冥福をお祈りする。(2021.3.10)
                                            (無断転載禁止)