「パリのシャンゼリゼ通りで、カメラのフラッシュを焚いてはいけない」

  その時、シャンゼリゼ通りに面したカフェで、ガラス越しに私は無邪気にデジタルカメラで風景を撮っていた。日陰の方に向いていたので、カメラが、光量が足りなくて、自動でフラッシュをピカッと光らせたのである。
  その途端だった。自動小銃をもった2人の兵士が、道路側からパッと私の方に振り向き、一斉に自動小銃を構えた。
  兵士たちは私が手にしている小さなデジタルカメラを凝視し、恐ろしい目で私を睨んだ。
 彼らはデジタルカメラのフラッシュを、爆発物の光だと咄嗟に勘違いしたのである。
  私は撃たれても仕方がなかった。まことに私は無知であった。
  東京の街中とは違ったのである。
  今から20年以上前の話である。日本では1996年のオウム事件が一段落した後の、平成の時代で、私は毎年のごとくヨーロッパに旅行していた。
  当時、シャルル・ド・ゴール空港には、ユニホームを着て自動小銃を携行した軍人が2人1組で通路を往復していた。スマートな制帽を被った彼らは、まことにカッコよく、私はまるで1つの美しい風景として彼らを眺めていたのであるが、罰当たりだった!
  ヨーロッパのテロ危機と隣り合わせの国情に無知な自分を、心から恥じなければならなかった。2015年のパリ同時多発テロの発生以後は、如何にのんびり屋の私でも、欧米は常にテロと隣り合わせの怖い地帯だと認識したので、敬して遠ざけて行かないでいる。
  多発テロの時に、私の親しいフランス人の従弟が、襲撃されたレストランの1階にいて、咄嗟の機転で店内の柱をよじ登り、ベランダに逃げて九死に一生を得た話は、1度どこかに書いた記憶がある。話を聞いただけで戦慄ものであった。
  昨日はあたかもアメリカの同時多発テロ、9.11の20周年の日であった。
  報道によれば、グラウンド・ゼロの近くで、バイデン大統領も出席しての慰霊祭が行われた。バイデン大統領夫妻、オバマ元大統領夫妻、クリントン元大統領夫妻らが出席した式典で、遺族らが犠牲者の名前を1人1人読み上げたという。犠牲者数は2,977人だった。
  私は2001年の9.11当時、一流のS週刊誌にコラムを連載していて、それはテレビ批評のページだったので、毎日朝から晩までテレビ漬けでモニターをしていた。
  テレビ朝日の『ニュースステーション』では、カッコイイ久米宏さんがキャスターで、放送直後から、あの衝撃的なニューヨークの世界貿易センタービルに、2機の旅客機が突入するシーンを生中継していた。
  超高層ビルと真横から突入する飛行機と、風に吹かれて斜めに立ち上る黒煙の画面が、今でも脳裏に焼き付いている。
  日頃饒舌な久米さんが、唖然としている様子を見て半信半疑だった私も、「これは現実なのだ」と座りなおした記憶がある。また、よせばいいのに、民放にも拘らず、『ニュースステーション』のテロ画面の間中、CMを流さなかったので、自分のコラムに「CMをパスしてくれたスポンサーの名前は記憶しておく」などと書いてしまい、そのスポンサーの会社名を知らせろと取材されて大慌てしたのを思い出す。
  夥しいエピソードが書かれたが、当時のニューヨーク市消防局の消防士たちの活躍ぶりと悲劇の物語は数々語り継がれた。
  最も印象深かった印刷物は、私が9.11の翌日、キオスクで買ったグラフ雑誌の表紙の写真である。怖くて怖くて思い出すのも嫌だが、それは崩落しつつある貿易センタービルの外側を、まだ、完全に五体満足なまま頭から落ちてゆく背広を着た男性の姿だった。
  余りにも残酷で正視できなかったが、多分、その人はもう気絶していたに違いないのだ。
 旅客機が墜落する時にも、乗客は落下のスピードが速くて気絶すると聞いたので、この悲劇の男性も、写真に撮られた瞬間は既に気絶していたのに違いない。そうでも思わなければ悲しすぎる。
  さて、今回の多発テロ20周年の記事の中から1つ紹介させていただく。毎日新聞、9月12日の社会面である。隅俊之さんという記者が書いている。
  マイケル・ジョルダーノさんは39歳、だから当時はまだ19歳だった。保険会社に勤めていて、110階建て高層ツインタワー南棟の89階がオフィスだったが、愛する母親のドナ・ジョルダーノさんも同じ会社で92階に勤めていた。
  一機目の旅客機が北棟に突入した直後、ジョルダーノさんはいち早くエレベーターで階下に逃げて助かったのだが、92階にいた母親のドナさんは間に合わなかった。エレベーターで下層階に避難する途中、2機目が突入した南棟が崩落し、そこでの目撃情報を最後に母親は今も見つかっていないのだそうだ。
  母は一所懸命に働くことの大切さを教えてくれて、光のような存在だった。今のマイケルさんは結婚したしマイホームも手に入れた。新しい友人や家族も出来た。でも、マイケルさんは慰霊モニュメントの前に、メッセージボードを置きながら、「あなたがいなくて毎日が寂しい」と自分の人生を母に見せたかったという。母の存在はそれほど大きいのだ。
  2,000人以上の人たちのそれぞれに、かような思いがあるはずである。
  すべてを破壊し、何も生まず、20年経っても嘆き悲しむ遺族がいるテロリズムは、人間の憎悪から生まれる。なぜ地球上からなくならないのか。
  日本における奇異なテロリズムのオウム真理教は、麻原彰晃という人の妄想の中から生まれた。あの事件も未だに私は「なんであったか」分からない。荒唐無稽と切り捨てるには亡くなったり怪我をしたりした人が多すぎる。裁判歴を読んでも未だに分からない。
  ましてや2,000人以上が犠牲になって、首謀者と言われる男が殺されても、今また残党らしき人たちの末裔が、うごめいている9.11米国同時多発テロ。このアメリカを率いるバイデン大統領は、さぞ気が重いことだろう。
  映像で見た世界のニュースの中で、未だに第1位の衝撃度をもつ米国同時多発テロ。
  2度と起きないでほしい。あの日の映像の、抜けるように美しいニューヨークの青空が脳裏に焼き付いてまだ離れない。(2021.9.12.)
                                     (無断転載禁止)